2011年7月3日日曜日

チャクラ・シティの民


 そしてたどり着いたのが、現在のロシア南部から中央アジアにかけて存在したアンドロノヴォ文化だった。シンタシュタという村で、史上最古と言われるスポーク式車輪を用いたチャリオット(ラタ戦車)が発見されており、それはインドラの時代を500年も遡る紀元前2000年頃の事だという。

 そこでは貴人の埋葬にチャリオットとそれを引く馬が副葬され、彼らにとっていかに戦車が重要な意味を持っていたかが分かる。それはひょっとしたら、チャリオットに乗った死者の魂が天上の神に至るように、という願いだったのかも知れない。

 彼らは、人類最初の木製スポーク式車輪の開発者だと言われている。それ以前の車輪は板を張り合わせて円盤状に作った鈍重な物だった。それに対して、スポーク式は軽く、高いバランスと剛性を誇る画期的なテクノロジーだったのだ。リグ・ヴェーダとほぼ同時代の古代エジプトの壁画を見ると、この頃の車輪は6本スポークが主流だったようだ。この6本という数は、当時の技術力の限界と構造力学的な合理性とのギリギリのバランスだったのだろう。

エジプトのラムセス二世のレリーフ

このニュータイプの車輪を履いた機動戦車を駆って、アーリア人は西へ東へ南へ北へと、破竹の勢いで進軍していった。その証拠に、フィンランドを除きロシアを含めた全ヨーロッパは、アーリア・ヴェーダの言語と同じ、インド・ヨーロッパ語族として統括される。彼らは優れた物質文明(それは端的に武力そのもの)を携えて全ヨーロッパを直接、間接に席捲し、その影響はオリエント世界にも及んだ。そして、このスポーク式車輪をはいた戦車こそが、地中海周辺の古代都市文明を飛躍的に発展させる契機ともなったのだ。

 中でも、東へと向かったアーリア人によって残されたアルカイムの遺跡をネットで発見した時、私は肌が粟立つような戦慄を禁じえなかった。それは紀元前1600年前後の遺跡で、その航空写真には見事な車輪の形をした集落跡が写されていたのだ。この遺跡は研究者によって、インド・アーリア人による最も古い都市遺跡として認定され、ロシア現地のマスコミによって、スワスティカ(卍)・シティとセンセーショナルに命名されたという。けれど、その写真はどう見ても、卍ではなく車輪の形をしていた。これこそが、チャクラ意識の起源に違いない。私はようやく、回転技の最古層の原風景にたどり着いたのだった。

アルカイムの環状都市

 紀元前2000年頃、現在のウクライナから中央アジアにいたる大平原のどこかで、遊牧をするアーリアの民が木製スポーク式車輪の開発に成功した。その技術的優位は戦力としても輸送手段としても卓越していたため、彼らは中央アジアから周辺に勢力を拡大していった。

 その内の東へと進んだ集団が、シンタシュタでチャリオット葬を残し、アルカイムでチャクラ・シティを残し、勢力を蓄えながらさらに東へと進んでいった。どうやら彼らは、日が昇る東天の地に対する強い憧れを持っていた様だ。それは、暁紅の神ウシャスに捧げられたリグ・ヴェーダ賛歌にもよく表れている。

 『繰り返したち返る光明は、暗黒より離れ、東方に現われたり~輝かしき天の娘ウシャスらは、人間に道を開かんことを』『ウシャスは常に輝きぬ、今またさらに輝かん、車両を躍動せしむる女神は』(辻直四郎訳)

 彼らにとっての民族的アイデンティティはチャリオット=ラタ戦車であり、他民族に対する優位性の源であるスポーク式車輪は、その象徴であった。そして、怒涛のように戦場を駆け巡る戦車の威力、その回転する車輪のデザインと力強さが、天空を巡る太陽のパワーと重なり合い、ここにラタ戦車で天空を駆け巡る太陽神のイメージが出来上がる。

 そして、太陽の故郷であり力と豊かさの源である東天に対する憧れが、彼らをして更なる東征へと駆り立てていったのだろう。やがてカイバル峠を越えて、ついに紀元前1500年、アーリア人はインド亜大陸に進入する。侵略の対象になった先住諸民族は、その高性能機動戦車の威力の前になすすべもなく屈服するしかなかった。

 アーリア人にとって、ラタ戦車は強大なる征服者の印として、略奪がもたらす富の源として、そして何よりも偉大なる神威の象徴として、ますますその重要性を高めていった。その現れこそが、リグ・ヴェーダに登場するラタ戦車に乗って天空を駆け巡る神々に他ならない。雷神としてのインドラも、轟音を響かせて大地を疾駆する戦車のイメージと、天空を駆け巡る恐ろしい雷鳴のイメージが重なり合って出来たものだと考えると理解しやすいだろう。

そして、日輪と車輪が共有する神的威力とデザインの相似性から、ここに偉大なる武王(武神)と大いなる太陽神の威力を共に象徴する、聖なる車輪(チャクラ)のイデアが完成した。

プーリーに現存するロープの回転技、バナーティの古伝承によれば、棒や鎖による炎の回転技が、王の武威を象徴するデモンストレーションとして戦場の最前線で演じられたと言う。それはダヌル・ヴェーダに由来する伝統だった。

私は、インドラが最高神として北インドを席捲していた時点で、偉大なる王や神々の武威を象徴する技として、すでに炎の回転技が行われていた可能性が高いと考えている。それは視覚的な陣太鼓として、躍動するチャクラの昇り旗として、全軍の士気を高めていたに違いない。あるいはそれはさらに古く、シンタシュタやアルカイムの時点で、他民族に優越する偉大なるアーリア人の力の象徴として、すでに戦場や祭において演じられていたかも知れない。

この技の基本は、両手で交互に棒を受け渡しながら回し続けるという極めてシンプルなものだ。それはある意味、スポーク式車輪を造ることよりも遥かに簡単だと言える。当時から実践されていたとしても、何の不思議もないのだ。この仮説が正しければ、回転技の起源は優に4000年以上の時を遡る。もちろん証拠など何一つ残されてはいない。だがそれは壮大な歴史ロマンとして、私の胸を高ならさずにはおかなかった。

やがてヴィシュヌがあまたいる太陽神群の中から抜きん出ると、チャクラのイデアはクリシュナとからみつつヴィシュヌ神のスダルシャン・チャクラとして取り込まれ、相前後してブッダの転法輪となってブレイクする事になる。

だがこのリグ・ヴェーダの時点では、チャクラはあくまでも超越的な威力を象徴するに過ぎなかった。それが真にスピリチュアルなものとしてインド世界に燦然と輝くためには、先住民文化の台頭を待たなければならなかったのだ。ドラヴィダ先住民は、アーリア人の侵略をどう受け止めたのだろうか。ここにチャクラ意識の謎を解く、もうひとつの鍵がかくされていた。


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