2011年7月4日月曜日

インダスの印章


 200711月、私は3度目の訪印を果たした。今回の旅の目的は、北、西インドの伝統武術を実見する事と、チャクラ意識がインド現地において、具体的にどのような形で継承されて来たかを確認する事だった。

 手始めに、前回スケジュールの都合で行けなかったコナーラクの太陽寺院をあらためて訪ね、その威容に圧倒された。寺院は正確に東に向いて建てられ、周囲の壁に据えられた巨大な12組の車輪は一年の季節を表わし、同時に日時計を兼ねている事も新たに知った。太陽の運行と車輪の運動が時の観念と結びつき、車輪は時間や季節を象徴するモチーフにもなっていたのだ。考えればアナログ時計のデザインは車輪そのものだし、その内部は歯車だらけで、車輪と時間との親和性の高さは時代を超えた普遍性を持っている。

コナーラクの太陽寺院

その後、マガダ国の旧都でブッダとも所縁の深いラージギール、ガヤーのヴィシュヌ・パッド寺院、ブッダ成道の地ブッダガヤ、初転法輪の地サールナートと巡った私は、クリシュナ生誕の地マトゥラーを経て、首都デリーへと向かった。

 ここには、インド中で最もその展示が充実している国立博物館がある。私は丸一日をかけて隅から隅まで見学し、多くの収穫を得た。本やネットから仕込んだ知識が具体的な展示物として目の前に迫ってくるリアリティは、大きな感動を伴うものだった。同時にそこで、私は今まで知らなかった衝撃的な事実を発見する。それがインダス文明の印章文字だった。

 1921年、植民地インドの考古調査局員サハニによってハラッパー遺跡が発見され、翌1922年には続けて、死者の丘を意味するモヘンジョダロでハラッパーとよく似た古代遺跡が発見された。そして1924年、考古局長のマーシャルによって大規模な発掘調査が行われ、この都市遺跡は中心河川の名を取ってインダス文明と名づけられた。

 およそ紀元前2600年から1700年にかけて繁栄したこの都市文明は、完全な計画都市を特徴とし、街区は大浴場、穀物倉、集会場など公共の施設が集中する城塞部と、一般の市街地に分けられていた。その後に発見された主要都市遺跡の多くが、河川や海岸に面していた事から、現在では、これらの港湾施設を使った海上貿易がインダス文明の繁栄を支えていたと考えられている。その交易範囲は遠くメソポタミアにまで及んだという。

 各地の遺跡からは凍石で作られた印章が多数発掘された。これは商人が積荷などの封印として蜜蝋や粘土に押していたと考えられている。押印は呪術的な意味を持ち、その印面には瞑想するヨーギ(行者)の姿やいくつかの動物が彫られている。それらと並んで様々な象形文字も刻まれていたが、その中に、6本スポークの車輪と見まがうデザインがあったのだ。このシンボルは、近年発掘が進んでいるグジャラート州のドラヴィーラ遺跡においても大量に発見され、他のデザインとは本質的に異なった聖なる印である可能性が高いという。

インダスのチャクラ文字

 その一見車輪に見えるデザインは、しかし車輪であるはずはなかった。何故なら、それが使われた紀元前2000年前後には、まだこの地域にスポーク式車輪は現れていないからだ。発見された遺物によって、彼らが板を張り合わせた円盤状の車輪を使っていた事が分かっている。しかもまだ馬は普及しておらず、車を引いたのは牛であり、その用途も荷車が中心だった。

 博物館で立ちすくみながら、私はしばらく、その形を見つめ続けた。それは何故か、私の心の琴線に触れる物だったのだ。

 そして、突然、その記憶は蘇った。

 19962月末、私は北タイの古都チェンマイで一ヶ月の瞑想リトリート(接心)に入っていた。そこはビルマのマハシ・サヤドウ師の法統につながるヴィパッサナ・メディテーションの修行寺院で、インドで知り合ったタイ人僧侶の紹介で瞑想コースに参加したのだ。

 日本でも参禅の経験があった私にとって、しかしテーラワーダの瞑想はとても新鮮なものだった。日本の禅のような軍隊式の規律と統制を第一としたものではなく、その反対に、あくまでも修行者本人の主体性に基づいて進められる修行システム。それはどこまでも合理的でステップ・バイ・ステップの分かりやすいものだった。難解な漢語ではなく、パーリ語から平易な英語へとダイレクトに翻訳された経典類や解説も、とても分かりやすく素直に心に入ってきた。

 そして、接心が始まって2週間後、私は不思議な体験をした。

 瞑想の深みの中で、突然、意識のスクリーンに眩い光の紋章が刻印されたのだ。それはまさに今目の前にある、インダスの象形文字そのものだった。もちろん当時はそんな事は分からず、単なる幾何学文様のヴィジョンとして受け止めていた。けれど二つのデザインはまったく同じものであり、6本スポークの車輪とも重なるものだったのだ。

 そこまで考えた私の中で、もうひとつの記憶が蘇ってきた。それはチェンマイでの体験から一年後、インドのリシュケシュでヨーガを習ったグルジー(師匠)の言葉だった。

 『常に神を思い精進する瞑想者の心には、神の恩寵としてチャクラのヴィジョンが現れる』

そして目の前には、瞑想するヨーギを刻んだ印章があった!

瞑想するヨーギ

 そう、これは瞑想の深みにおいてヨーギに訪れる、チャクラ・ヴィジョンの刻印に違いない。私はそう直感した。考古学者によると、インダスの都市遺跡には特権階級による専制支配の痕跡が見当たらず、武器も貧弱なものしか発見されていないという。強大な権力を持つ王のような求心力が不在な中、どのようにしてこれだけの文明が維持されたのかが大きな謎だったのだ。

恐らく、当時インダス文明において、宗教的行者(ヨーギ)の存在が特別な力を持っていたのではないだろうか。そして日本の邪馬台国のように、霊的な素質を持った少数の神官の霊力によって民衆が統治されていたとしたら・・・

 その後の印章文字の研究によって、インダス文明を担ったのはドラヴィダ人だというのが最も有力な仮説となっている。恐らく、彼らは優れて宗教的な資質に恵まれていたのだろう。それは現在のタミル世界にも色濃く残っている。そしてインダス文明が気候変動などで衰退に向かったまさにその時に、武力の権化であるアーリア人が、ラタ戦車の車輪を駆って怒涛のように攻め込んで来たのだ。

 その時、その地軸を揺るがすような轟音をたてて疾駆する戦車を目の当たりにした時、ドラヴィダ人は何を思っただろうか。その車輪が、まさに神的ヴィジョンと同じ形をしていたとしたら・・・

 ひょっとして彼らは、ラタ戦車に乗るアーリア人を『神』だと思ったのではないか。奔馬に引かれ、轟音を上げて大地を疾駆する高速機動戦車とそのスポーク式車輪。初めてそれを目の当たりにする彼らにとって、その動きは、その働きは、正に神速そのものと映ったのではないのか。それはちょうど、馬に騎乗したスペイン人侵略者を見て、神だと錯覚したインカの人々と、同じではなかったろうか。

 ガラスケースに囲まれた展示を見つめながら、私は3500年前のその瞬間をまざまざと幻視していた。


0 件のコメント:

コメントを投稿