2011年7月8日金曜日

神聖チャクラとしてのブッダの転法輪


話を紀元前500年前後、ブッダが生まれた頃に戻そう。

ガンジス川の上流域、現在のデリー周辺を拠点とし純粋なアーリアの血を誇ったバラモン達は、農村社会を基盤としたがんじがらめのカースト秩序を構築し、祭祀を独占する最上位の特権階級として人々の上に君臨していた。彼らは、ガンジスの中、下流域をヴェーダの及ばない世界の果てと呼び、そこに住む人々を混血族、あるいは蛮族と蔑んでいた。

 けれども、その時点ですでに経済力に関しては、その蛮族のほうがアーリア主導の社会を遥かに凌駕しつつあったのだ。基本的に商業を賤業として蔑んでいた保守的なバラモン文化に比べ、先住民文化が優越する中、下流域の人々はリベラルであり、アーリア人の優れた文化(特に戦車の製作法や冶金学、数学や豊かな言語概念)を咀嚼して以降は、むしろ先住民のほうが経済力や軍事力において台頭してくる。

 ブッダの時代、ガンジスの中、下流域にはいくつもの商業都市が繁栄していた。この地域には多くの新思想家が現われ、インド思想史上、百家争鳴とも呼べる黄金時代を築いた。六十二見とも呼ばれた多様な思想に共通するのが、ヴェーダの権威とバラモンの祭祀、中でも犠牲獣を捧げる供儀の有効性を否定した事だろう。そしてもうひとつ、バラモンを頂点としたヴァルナ(色)の身分差別も批判の的となった。混血が進んで人種差別の意識も低い都市に住む自由な経済人にとって、そのような保守的な因習はナンセンス以外の何物でもない。新しい思想は王侯から下層民に至る全ての人々に歓迎された。

 そのような社会を背景にして、ブッダは生まれたのだった。それは人々にとって、正に待望された救世主の登場となった。

 この頃、ガンジス川の中、下流域では16大国が栄えていた事はすでに述べた。その中でも、ブッダ、つまりシッダールタが生まれたシャカ族は、よりリベラルな共和制を敷いていた。私はこのシャカ族を、モンゴロイド系の先住民と考えている。

戦士階級クシャトリアの王子として生まれた彼は、上流階級の常として幼少時にはヴェーダを学ばされた。だが長じて人生の苦に目覚めると、ヴェーダやバラモン教が彼の苦悩を解決する力を全く持たない事に深く絶望していく。そしてついに29歳の時、妻子を捨てて王城を出奔し、魂の真実の救済を求めて修行者(沙門)の道を歩き始めたのだ。

 当初シッダールタは、仏典では六師外道と呼ばれる新思想家達のもとで瞑想修行に励んだ。短期間の内にそれぞれの最高レベルに到達してしまうが、それは彼の苦悩を解決するものではなかった。失望した彼は、当時主流だった断食や荒行などの苦行に飛び込んでいく。しかし6年が過ぎても、どのような成果をも得る事ができなかった。

断食行のために痩せさらばえた彼は、絶望を抱えた死の直前に山からさ迷い出て、偶然のように優しい村の娘スジャータと出会う。その身を案じて彼女が捧げたミルク粥を食べた彼は、翻然と苦行の無力を悟り、川で身を清めたのち、ひとり菩提樹の下で禅定に入った。それは、覚りを得ない限りは二度と立ち上がるまいと言う、大いなる決定心だったという。

ガンダーラ出土の苦行仏

一説には、彼は幼い日にナチュラル・ハイのようにして禅定に入った経験があり、その記憶をこの時蘇らせたのだとも言われる。他者から教えられた苦行によって痩せさらばえて死ぬよりも、自らの天性に還って死に至るまで禅定を極めることの中に、一筋の光明を見出していたのかも知れない。

 仏伝によれば、彼の禅定をマーラ(悪魔)の大軍が襲ったと言う。魔族たちは恐ろしい戦士の姿をとって彼の頭上に刀を振りかざし、あるいは狡猾な笑みを浮かべながら耳元で修行の中断をそそのかし、裸の美女は目の前で妖艶に腰を振って彼を誘惑した。これは恐らく、そのような悪魔が外からやって来たのではなく、彼の内面的な煩悩と葛藤の噴出だったのだろう。しかし彼は、それらに打ち勝って禅定を極めたのだ。

降魔成道

 そしてついにある『瞬間』が訪れ、忽然と彼は覚りを開く。その時、彼の頭上では明けの明星が涼やかに光り輝いていたという。

 その後、サールナートにおける最初の説法を皮切りに、ブッダの教えは燎原の炎のように北インドに広がっていった。神という曖昧な観念を離れ、徹底的に人生の苦とそこからの救済に焦点を合わせた彼の教えは、四諦八正道としてまとめられた。彼は平易に説いた。人間の運命を決めるのはカーストでもなく神頼みの祭祀でもない。どのような思いに基づいて、どのように行為するのか。それが人生を左右する最も重要な『縁起』なのだと。それはどこまでも理知的な人生の科学として、解き明かされたダルマ(法)として、当時の人々に革命的な意識の変革をもたらしていったのだ。

 やがて、その偉大な覚者としての歩みが回転する聖なる車輪に重ね合わされて、転法輪のイメージが確立していく。それは遠くインドラの時代に成立した武神チャクラと太陽神スリヤ・チャクラの思想が、瞑想する先住民のチャクラ・ヴィジョンと結びついた果てに生まれた、真の意味での神聖チャクラの誕生だった。

 ヴェーダの権威とバラモン祭祀の無効性を説き、カースト差別を完全に否定したブッダの教えは、リベラルな都市の住民達に歓呼をもって迎えられた。しかし、まさに仏教が持つそのリベラルな性格こそが、その後のインドにおける仏教衰退の原因となる事など、当時誰一人想像すら出来なかっただろう。

その後、紀元前3世紀にインド亜大陸を統一したアショカ王によってブッダの法輪が大々的にフィーチャーされ、インド全土でチャクラのシンボルはブレイクする。それまではアーリア人とその文化的影響下にあった周辺地域に限られていたチャクラ思想が、全インド世界の普遍的シンボルとしての地位を確立したのだ。

ちなみに、マウリア朝を生み出したマガダ国は、デリー周辺の純血を誇るバラモン達からは先住民シュードラの国として長く侮蔑されていた。それが今や誇り高きバラモン達をも飲み込んで、しかも本来アーリア人に由来する車輪を掲げてインド全体の覇者になったのだから、歴史とは皮肉なものだった。



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