2011年7月9日土曜日

アショカ大王と転輪聖王


それがブッダ以前か以後かは判然としない。けれど当時の北インドには、『転輪聖王』の思想があった。理想的な王が生まれると天空に輝ける黄金の輪宝が姿を現し、王がそれに従って進むとその進路に当たる諸王は戦わずして彼に服従し、世界はこの転輪聖王の輝ける輪宝のもと、武力ではなく法と徳の力によって治められ、統一されるという。

転輪聖王

アーリア人が侵入して以来、北インドでは戦争に次ぐ戦争によって民心が疲弊していたのかも知れない。ラタ戦車を駆って敵を征服する転輪武王が賞賛される一方で、その水面下では確実に、深い厭戦思想が広がっていたのだろう。そんな彼らが生み出したのが、この武力に依らずに世界を統べる理想の王、転輪聖王の姿だった。それは本来、現実にはあり得ない夢の様なユートピアだったのかも知れない。

だがカリンガ戦の惨禍を目の当たりにして深く悔い改めたアショカ王は、果敢にこのユートピアの建設を発願したのだ。彼は広大な帝国全土にダルマ・チャクラを掲げた石柱を立て、道路を整備し、産業を振興し、薬草を植え、全土に治療院を建て、無意味な殺生を禁止し、人間関係におけるモラル(ダルマ)の確立を促した。現代に伝わる彼の治績の数々は、ある意味現代社会が理想とする世界を、二千数百年も前に先取りしたものだったとも言えるかも知れない。

その根本にはブッダの教えがあった。アショカ王はバラモン教を含むすべての宗教を等しく保護しつつも、カースト差別や動物の供儀に対してはこれを完全に否定している。そして、何よりも銘記されるべきは、彼によって仏教がインドの地域宗教から世界宗教へと雄飛した事だろう。

彼は、帝国内部はもとよりスリランカや東南アジア、現在のアフガニスタンや遠くギリシャ世界に至るまで仏教使節団を送り、ブッダの教えを伝えている。事実、タイのナコーン・パトムと言う町の名はパーリ語で『最初の町』を意味し、アショカ王の使節によって東南アジアで最初の仏塔がここに建てられたと伝えられている。そこで発掘された石でできた古代の法輪は、彼の事績を記念するかのように、今もプラ・パトム・チェディ寺院の博物館にひっそりと展示されているのだ。

古代の法輪

思うにアショカ王は、自らを転輪聖王になぞらえていたのではないだろうか。武の王を極めた挙句にそれに絶望した彼は、ブッダの法輪を輪宝に見立てて、それを掲げる事によって、徳と法に基づいた理想の転輪聖王にならんと、発心したのではないだろうか。残念ながらその企ては彼の死によって潰えた。けれど彼が残した車輪の轍は、その理想は、時と場所を変えて脈々と受け継がれて行く事になった。

その後のインド諸王によって、アショカ王は理想の大王として憧憬され、アショカ大王になぞらえてブッダの法輪を掲げる事が、その王権の正当性と聖性と偉大性の証明とも考えられる様になっていった。それは云わば、アショカ・コンプレックスとでも言うべきものだったかも知れない。

ブッダや仏法が転じる法輪に例えられ、それがアショカ王によってブレイクしたどこかのタイミングで、回転技もまた、偉大なる武王を象徴する技からブッダの転法輪を象徴する技へと質的転換を遂げたと私は考えている。ここに至って、それは武力の象徴から離れて、純粋に宗教的な聖性を象徴する技として、全土に普及していった可能性が高い。

アショカ王の理想の帝国は極めて短命に終わったが、インド全土を一体化し様々な文化の共有を促したという点でも、大きな役割を果たしたと言えるだろう。その最も重要なもののひとつが、建築美術の分野だった。


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