2011年7月10日日曜日

車輪と華輪と日輪と


マガダ国がナンダ朝からマウリア朝へと一気に膨張し、インド全体に覇権を確立した時代は、同時にインドが世界史へと華々しくデビューした時代でもあった。

当時、インダス川流域にはギリシャ系やペルシャ系の外来勢力が押し寄せ、インドの勢力と激しくぶつかっていた。しかし彼らはついにガンジス川流域には軍靴を進めることができなかった。それを食い止めたのが、マガダの歴代諸王国だったのだ。

 ギリシャのアレクサンダー大王が、当時ペルシャ勢力の支配下にあったガンダーラ地方を征服しガンジス川流域を目指したとき、これを阻んだのはマガダのナンダ朝であった。実際には両者が戦火を交える事はほとんどなかったようだが、その圧倒的な軍事的プレゼンスによってギリシャ人将兵の撤退を促したのは、紛れもなくナンダ朝の実力に他ならない。

そして、インダス川流域の支配を回復すべく、ギリシャのセレウコス・ニカトールの軍勢が攻め込んだ時、これを撃退したのはマウリア朝の初代チャンドラ・グプタだった。彼はその後セレウコスと平和協定を結び、使節や贈り物を交換して地中海世界におけるインドの名声を大いに高めている。一説によれば、後のアショカ王はこの時受け入れたギリシャ人(あるいはペルシャ人)王妃の血を引いているとも言う。

 当時記述されたギリシャやペルシャの文献を見ると、インド軍の主力はすでにラタ戦車から騎兵隊や象部隊に移っていた事が分かる。ラタ戦車の軍事的重要度が低下するにしたがって、その車輪が持つ象徴としての意味合いも武から聖へとより宗教的な傾斜を強めたのかもしれない。

 そして、法輪を掲げてダルマの統治を象徴したアショカの石柱は、ペルシャやギリシャの影響を受けた当時最先端の彫刻造形美術を、インド全土に展示し普及する役目を果たしていった。

国章ライオン・ヘッド

 インド共和国の国章に採用されているアショカ石柱のライオン・ヘッドは、現在発掘地のサールナート博物館に展示されている。それを見た者は当時の高度な彫刻加工技術に驚きを隠せないだろう。鏡面仕上げと言っていいほどつややかに磨き上げられた柱をはじめ、毛筋までリアルに表現されたライオンのたてがみや生きいきとしたその表情、さらに美しく均整の取れた24本スポークの法輪、そしてライオン・ヘッドと柱の接合部に当たるペルシャ様式の優美な蓮弁装飾等々。そのどれをとっても、それ以前にはなかったインド造形美術の嚆矢であり、アショカ王はインド美術の父と言っても言い過ぎでない。

 この美的インパクトは、ブッダとアショカの栄光と共にインド全土を席捲し、その土地の人々を強烈にインスパイアしていった事だろう。その種は、やがて各地で百花繚乱の宗教建築美術を花開かせる事となる。今日見る事ができるその最初の大輪の花が、有名なサンチーのストゥーパだった。

 サンチーはマディア・プラデシュの州都、ボパールの北東46Kmに位置する。ここにアショカ王がストゥーパを建てたエピソードは、彼らしくない微笑ましいものだった。まだ若かりし頃、当時西インドの中心都市として栄えていたウジェインの太守に任命されたアショカ王子は、赴任の旅の途上、ヴィディシャで美しい商人の娘と出会い結婚する。敬虔な仏教徒だった彼女は、やがて故郷の近くサンチーの丘に仏教寺院を建設する。アショカはそんな王妃の心根を記念してこの地にストゥーパを建て、それはやがて地域の一大仏教センターへと時代を超えて成長していったのだ。

 比較的簡素だったアショカ・ストゥーパを土台に、欄楯とトラナに囲まれた美しい姿が完成するのは、後のシュンガ朝からサタヴァハナ朝にかけての数百年の間であった。特にサタヴァハナ朝の時代には世界遺産の決め手にもなったトラナと呼ばれる美しい門塔が完成し、ここに初期仏教美術が絢爛と花開く。それは同時に全てのインド宗教美術のルーツともなるものだった。

 第一ストゥーパの東西南北に建てられたトラナは、完成度といい規模といい保存状態といい、全てにおいて群を抜いていた。この時代、まだ仏像は出現していないが、その表面は精緻な彫刻でびっしりと埋め尽くされ、見るものを圧倒せずにはいない。

ブッダそのものを表す車輪、ストゥーパ、そして菩提樹。もともと貴人に差し掛けてその地位の高さを象徴したチャトラ(傘蓋)もまた、ブッダの臨在を象徴するデザインとして使われている。さらに世俗を超えた清浄性の象徴である蓮華、煩悩の埃を払うチャマル(払子)と呼ばれるハタキ、門衛のドワラパーラ、その他様々な神獣や小人、ヴィシュヌ神の神姫ラクシュミ女神の原型さえ見出せる。数え上げたらきりがないが、これらの多くが、その後全てのインド教に取り入れられ、現代に至るまで普遍的な宗教的モチーフとして生き続けるのだ。

サンチーのトラナ

中でもここで重要なのは、車輪と共に聖性を象徴する蓮の花だった。蓮は泥の中から出でて穢れなき純粋無垢の華を咲かせ、花びらや葉が泥水に触れてもそれをはじいて決して汚れに染まらない事から、古くからインドでは宗教的清浄性の象徴として特別な存在だった。それは同時に、水底の泥に埋まる根が世俗での生活を、濁った水中を上昇する茎が神を目指す精進を、水面を離れた空中で太陽を受けて花開く蓮華が解脱を表し、瞑想修行が完成されるプロセスをも象徴していると言う。

これも恐らく、乾燥した草原に発祥するアーリア人ではなく、モンスーンが卓越する地に生まれた先住民(それはインダス文明にまで遡れる)に由来する精神文化だったのだろう。サタヴァハナ朝の出自であるアンドラ族も、ヴェーダにおいてダスユと呼ばれたドラヴィダ系の先住民であった。

真上から見た蓮の華

仮に真円の幾何学文様として枚花弁の花柄を描いたとする。この花弁をスポークに見立てれば(あるいは花弁と花弁の間をスポークに見立てれば)、それは車輪のデザインとなる。騙し絵のようだが試してみて欲しい。ここに、聖なる車輪と聖なる蓮華が重なり合って、華輪、とでも言うべきデザインが形成されていった。

これに関しては、サタヴァハナ朝と同じころに成立したと言われる阿弥陀経の中に、面白い言葉がある。極楽の光景を描写するなかで、浄土を象徴する池には『大いなること車輪の如き蓮華』が咲いていると言うのだ。この表現は、実は法華経など他の多くの仏典にも共通してみられるもので、当時のインド人が蓮華と車輪を共に聖なるシンボルとして重ね合わせて見ていた事実をうかがい知ることができるだろう。

華輪と車輪のトリック

BC二世紀にシュンガ朝によって建てられた第二ストゥーパは、第一ストゥーパに比べ塔自体は小さく地味だった。けれどもその周りを囲む欄楯の一面にほどこされた彫刻を見たとき、私は目をみはった。そこには英語でメダリオンと呼ばれる円形の装飾デザインがずらりと並び、装飾のない塔と著しい対照を見せていたのだ。そして私は気付いた。メダリオンの中心モチーフは華輪であり、この欄楯が俗界と聖界を隔てる結界になっている事に。信者たちはこの聖別された結界の中を右繞し、日常の汚濁を離れて清浄なるブッダと出会っていたのだ。そして振り返って見れば第一ストゥーパのトラナの下面にも、結界としての華輪文様が美しく並んでいた。

第二ストゥーパの欄楯

6枚花弁の吉祥華輪

シュンガ朝が残した華輪デザインは、カルカッタのインド博物館に収められたバルフートの遺物にも見ることができる。シュンガ朝を創設したプシュヤミトラがマウリヤ朝の将軍だった事を考えると、すでにマウリヤ朝の時代以前から、華輪のデザインがブレイクしていた可能性が高いと言えるだろう。それはひょっとすると、インダス文明の昔にまで遡ることも可能かもしれない。というのも、インダスのチャクラ文字とほぼ同じデザインが、最もシンプルかつ基本的な吉祥華輪として現代に至るまでインド全土で使われている事実があるからだ。


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