2011年8月22日月曜日

吉祥文様と招来されるラクシュミ女神


ヴェンカテシュワラ寺院を訪ねた後、タミルナードゥ州に入った私は、まずは州都のチェンナイに宿をとって、州立博物館にアマラヴァティの展示を訪ねた。その、かつて巨大なストゥーパの周りを囲っていた欄楯の浮き彫りとブッダの法輪は、見るものを圧倒する存在感に溢れていた。

タミルに仏教が伝来した初期サンガム時代、それは正にアマラヴァティでチャクラ美術が花開いた時期と重なっている。時代は下って、チャクラを御神体と掲げるヴェンカテシュワラ寺院とタミルの諸王朝は密接な関係を保ち続けていた。チャクラ意識はタミル世界に大きな影響を与えたに違いなかった。

 タミルナードゥ州を訪れるのは、インド武術を始めて以降これで三回目になる。だが、前二回の訪問では武術取材に専念して、遺跡や寺院などはほとんど回れなかった。そして周囲を見る視点も以前とは全く異なっている。果たして、回転技のメッカであるタミル世界で、チャクラ意識はどのように展開しているのか。期待を胸に、私は寺院や遺跡をめぐり始めた。そして、目くるめくチャクラ・ワールドに遭遇する事となったのだ。

 デカン高原以南の南インドでは、伝統的に女性達によってランゴーリ(あるいはコーラム)という吉祥文様が描かれてきた。それは様々な色をつけた砂によって各家庭の玄関先の地面に描かれるのだが、それが典型的な美しいチャクラ・デザインだったのだ。

六芒星をベースにした玄関先のランゴーリ

 色鮮やかに展開するランゴーリの図形を玄関先に描くことによって、ラクシュミ女神がその家庭に招来されて、吉祥と富をもたらすのだと言う。そのデザインは、車輪と華輪とヤントラが融合した、正にチャクラ・デザインの精華とも言うべきものだった。

車輪をベースにしたランゴーリ

 ヴィシュヌ神の伴侶ラクシュミ女神は、左右には聖なる二頭の白象を侍らせ、美しいピンクの蓮華座に坐り、両手に蓮華をかざした姿で描かれ、殊のほか蓮華とかかわりの深い神格だった。ランゴーリやコーラムは、ラクシュミ女神のスピリットを呼び込むための結界として、彼女が坐る蓮華座として、そして彼女を喜ばす蓮の花束として、さらにヤントラとして、聖性の象徴である車輪として、その全ての複合である吉祥文様として、長い歴史の間に育まれたのだろう。

ラクシュミ女神

 ランゴーリの習慣は、代々一家の主婦によって担われてきたと言う。それは、ラクシュミ女神を初めとするデヴィ達と共に、インドのチャクラ文化の担い手が男性から女性へと移り代わって行った歴史を象徴していた。

そして、タミルの旅が進むに連れ、さらに新たな事実が明らかになる。結界としての華輪がランゴーリと結びついて、寺院の天井と床を埋め尽くす、華麗なる吉祥文様の万華鏡世界を展開していたのだ。

それは決して新しい発見などではないはずだった。10年前にも、そして前二回のインド武術探訪でも、私はタミルを訪れ、その事実を目にしていたはずなのだ。けれど人間の認識と言うものは不思議なもので、例え目にしていても意識の焦点がそこに会わなければ、それは決して認識のレベルにまで届かないのだ。そのめくるめく華輪ワールドに開眼した瞬間、タミルは全く異なった世界として私の前に姿を現したのだった。

マハーバリプラム、チダムバラム、クンバコナム、タンジャブールと南下し、パッラヴァ朝からチョーラ朝にかけての寺院建築の宝庫を巡った私は、そこで多くの吉祥文様のペインティングを再発見した。そしてシランバムのメッカ、マドゥライのミナークシ寺院も、気がつけばその天井は色鮮やかな吉祥文様で溢れていた。

パッラヴァ朝時代の天井華輪

中でも最も印象深かったのは、ラーメシュワラムのラーマナータスワミ寺院だった。その圧巻とも言える長大な回廊の天井は、ありとあらゆる吉祥文様のバリエーションによって埋め尽くされていたのだ。

ラーマナータスワミ寺院の回廊

この寺院は、北のバラナシ、南のラーメシュワラムとも称される様に、数あるヒンドゥ聖地の中でも最も重要なもののひとつだ。それはヴィシュヌのもうひとりの化身であり、ラーマヤーナの主人公として知られるラーマと深く関わっていた。

誘拐された愛妻シータを救うためにスリランカへ渡ったラーマは、そこで悪王ラーヴァナを殺しシータを取り戻す。海を渡って無事インドに凱旋した彼は、ここでラーヴァナ殺しの罪を清めるべくシヴァ(エシュワラ)を勧請し礼拝した。以来この地はラーマ・エシュワラと呼ばれるようになり、後に現在のような荘厳な寺院が、シヴァとラーマを共に祀るものとして建立された。このラーマの物語は国民的叙事詩としてインド全土に広まり、ラーメシュワラムは、全ヒンドゥ教徒が生涯に一度は巡礼すべき第一級の聖地となった。

実際にこの寺院が建てられたのは11世紀頃だと言われるが、それはちょうど南インドでバクティ信仰といわれる運動が盛んになり、インド全土に広まった時代と重なっていた。それまで民衆は、バラモンと言う仲介者によって初めて神々とつながる事が出来た。いわば、バラモンは神々を占有する独占プロバイダーだったのだ。けれども社会が安定し、民衆の意識が成熟してくると、そのようなバラモン独占から離れた、言葉の真の意味で民衆のための神々が求められるようになる。

その求めはタミルを中心とした南インドで、神との合一を目指すバクティ運動として結実した。それを担ったのは、身分や性別を問わず様々な階層から輩出した宗教詩人と呼ばれる人々だった。彼らはバラモンに独占されたサンスクリット語ではなく、民衆にも理解できる日常のタミル語を使って神々への信愛を歌い、寺院を巡って人々の宗教心を掻き立てていった。そこで必要とされるのは難しい哲学でもなく複雑な祭祀でもない。人々はただ一心に神を念じ、あたかも恋人が愛しい人を思うように神に心を寄り添わす事によって、魂の救済が得られると説かれた。

そしてこのバクティ運動は、デヴィ・シャクティの信仰と深く結びついたものだったのだ。女性が男性を深く愛し寄り添っていく心、それが開発因となって男性原理と女性原理が結びつき、世界が展開していく。同じように、ひたすらに神を思い神を愛する事によって、人のその思いが神を動かし、世界に安定と調和をもたらす。

このバクティとシャクティの機運は、実は紀元前からすでにインド思想界の地下水流として脈々と流れ続けていた。それはヴァガバット・ギータにおいてクリシュナが説いた神への信愛や、あるいはサンチーの門塔における豊満な女神ヤクシとしてすでに顕れている。けれどそれが二つながら結びついたこの時代になって初めて、飛躍的な発展を遂げる事ができたと言えるだろう。

初期仏教にしてもジャイナ教にしても、バラモン教、そして初期ヒンドゥ教にしても、宗教における主役は常に男性だった。出家修行して解脱できるのは男性だけであり、バラモンとして祭祀を行い、神とつながれるのもまた男性だけだった。

シャクティとバクティの運動は、宗教の世界で常に二等市民を強いられてきた女性達が、ついに決起した革命だったのかも知れない。それは同時に、女性がチャクラ意識の担い手として台頭する契機ともなった。その象徴こそが、女性によって描かれる吉祥文様ランゴーリやコーラムに他ならない。

バクティ運動はやがて熱烈な信愛に基づいた聖地巡礼の網の目をインド全土に確立していった。その聖地筆頭とも言えるラーマナータスワミ寺院が、そしてあまたのドラヴィダ寺院が、鮮やかな吉祥文様によって彩られているのは、決して偶然ではないのだ。


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