2011年8月23日火曜日

タントラの台頭と衰退する仏教


一方、ヒンドゥ教の勃興からシャクティとバクティが台頭する過程で、その攻勢に耐え切れなくなった仏教は密教へと変質を余儀なくされ、ついにブッダは本尊の地位を大日如来へと奪われてしまう。

大日如来、それは大宇宙そのものと一体と考えられる汎神論的な法身仏で、その光明であまねく照らす事から遍照ともいう。その名の通り太陽を神格化した如来であり、そのイデアは、太陽の光照作用に由来し世界のすべてに浸透するヴィシュヌ神と驚くほど似通っている。ひょっとすると大日如来の登場は、ヴィシュヌ・バクティ教に対する仏教的なカウンター・パートだったのかも知れない。それはインドにおける仏教が、滅亡に至る最終章へと踏み出した一歩だった。

実は、女性意識の台頭と仏教の衰退に関連した面白い事実がある。

西暦7世紀以降、インドでは多くのヒンドゥ寺院が様々な王朝によって建てられるのだが、その少なくない数が、王妃によって建てられているのだ。それらの寺院の装飾には胸もあらわな豊満な女性像が多く用いられ、ヴィシュヌやシヴァや神々は、常に伴侶である神姫と寄り添う形で描かれている。王達も半裸に近い王妃の腰や胸に腕を回した中睦まじい姿で神々に相伴し、仏教徒の感覚で言うと、とても寺院とは思えない世俗的なエロスの礼賛がそこには横溢している。

寄り添い愛撫し合う王と王妃

この時代、寺院建立にまつわる伝承の中に、王妃が夫(王)や兄弟を仏教やジャイナ教からヒンドゥ教に改宗させた話が、繰り返し出てくる。当時の女性の発言権が、決して小さくなかった証拠だろう。上流階級のある種リベラルな生活の中から、ウーマン・リヴのような機運も生まれていたに違いない。

中部デカンはマハラシュトラ州のエローラに、世界遺産の石窟寺院群がある。8世紀から10世紀にかけて栄えたラシュトラクータ朝によって造営されたもので、広大なデカンの岩山をそのまま掘りぬいて作られた驚異の建造物は見る人を圧倒せずにはいない。ここは同時に、インド全土でも珍しく、仏教とヒンドゥ教とジャイナ教の寺院群が、それぞれ平和的に共存していたと言う点でも宗教史上に残る遺跡となっている。

中でもシヴァを主神として祀るカイラーサ寺院は、横穴を掘り込んだ仏教窟院とは対照的に、岩山をそのまま彫刻して寺院建築を出現させると言う破天荒な壮挙によって有名だ。そこでも、シヴァはパールヴァティと、ヴィシュヌはラクシュミと常に寄り添い、寺院とは男性神と女性神が睦みあう愛の巣であるかに見える。それを象徴するかのように、御神体として神室に安置されるシヴァ・リンガ(男根)は常にヨーニ(女陰)と結合した姿で表わされ、その神室は象徴的にガルバ・グリハ、つまり『子宮』と呼ばれるのだ。

一方、仏教の寺院を見ると、開祖であり神格でもあるブッダは、常に暗い寺院の最奥部にひとり坐っている。そう、彼は常に孤独なのだ。それは伴侶と寄り添うシヴァやヴィシュヌ、最愛のシータを命がけで救い出すラーマ、そして牧女達と浮名を流し複数の愛妻と仲睦まじく暮らすクリシュナとは、対極的なイメージだった。

家を捨て妻を捨て性愛を捨てて、ひたすらに瞑想にふける彼の生き様は、どのようにしても女性原理と交わる事は決してないのだ。女性の胎から生まれながら、彼の人生は女性性を根底から否定し、拒絶していた。その果てにしか到達しえない境地というものが確かにある、それはそうなのかも知れない・・・

だが、この様な仏教のあり方に、社会的に目覚めた女性たちがNOを突きつけた。これが、仏教がインドから滅びたひとつの大きな原因ではなかったかと私は思う。それは同じような出家主義をとるジャイナ教の場合にも多かれ少なかれ当てはまるだろう。暗い洞窟の奥にひとりこもるブッダと、太陽の光を浴びたカイラサナータ寺院で神姫と睦みあうヒンドゥの神々。それは、女性の性力に基づいたタントラ・シャクティ教が、出家主義に挑戦するかのように台頭し、インド全土を席捲していった歴史を、見事に表わしていた。

そしてその極めつけは、10世紀から13世紀にかけて繁栄したチャンデーラ王朝によって、北インドのカジュラホーに建てられた寺院群だろう。そこではカーマ・スートラを思わせる男女の交合図(ミトゥナ像)が寺院の壁一面に彫りこまれ、あたかもハーレムが石化して固定されたような印象を受ける。ヒンドゥ教徒にとっての人生の目的は、ダルマ(カーストに基づいた宗教的義務の遂行)とアルタ(実業における利益の追求)とカーマ(性愛の堪能)だと言われるが、タントラ的なデヴィ・シャクティへの信仰が、その突出したカーマへの傾斜を生み出したのかも知れない。

カジュラホーのミトゥナ像

伝統的に、北インドに発祥する全ての宗教において、瞑想修行によって神の英知に到達できるのは男性だけだった。霊的に優れた男性だけが神を知り世界の真理を知る事が出来る、そんな男尊女卑が間違いなくそこにはあったのだ。それに対してインドの女性たちが果たした、痛烈な逆襲こそがタントラだった。

神ならぬ男は、神を外部に求めて額に皺を寄せて修行せざるを得ない。けれど、神そのものを内に秘めた女性は、神を外部に求めて修行などする必要はない!そして、神をシャクティとして内在させた女性と交わる事によって、そのシャクティと一体化する事によって、男たちはより速やかに神と一体化し、救済されるのだ。

それは出家主義を奉じる仏教にとって、文字通り致命的な一撃だった。追い詰められた仏教は、ついに禁断のタントラ思想を取り入れ、その一部は左道密教へと変質していく。密教化の過程でブッダを本尊の地位から追いやり、ここで実践上最も重要な『戒』さえも捨てた仏教は、もはや『ブッダの教え』としての体裁を完全に喪失したのだ。そしてヒンドゥ教との差異性を失くした仏教は、インドにおいて、その存在意義さえ見失っていく。

カジュラホーでタントラ思想が頂点を極めていた頃、仏教はすでに滅びの寸前にまで追いやられていたと言ってもいい。正にその時、ムスリムの侵略軍が北インドに押し寄せ、密教最後の砦であった東インドのヴィクラマシーラ僧院を徹底的に破壊し、仏教は事実上、インドの大地からは滅び去ったのだった。

考えてみれば、ヒンドゥ教徒にとっての人生の三目的やシャクティとバクティに基づいた神への信仰は、ブッダが否定し、苦悩の根源として厭離したものばかりだった。ヒンドゥの価値観とは、正に反仏教の流れそのものだったのだ。妖艶な美女の誘惑を退けて降魔成道し、神を否定し暗い洞窟の中ひとり無一物で座り続けるブッダの姿は、インド世界の中では、不可避的に滅びゆく運命にあったのかも知れない。

おそらくは棒術の回転技もまた、ここにおいてブッダの転法輪から完全に切り離され、ヒンドゥの様々なチャクラ意識を象徴する技として、人々の日常生活に溶け込んでいった。そしてブッダの転法輪の記憶は、人々の中から完全に失われてしまったのだった。

だが一方で、インドにおける仏教の衰退とその滅亡は、同時に海外における仏教興隆の種をまく事にもなった。あの達磨大師が中国に渡ったのも、迫り来るヒンドゥ化の大波を見てインドにおける仏教の未来を見切り、中国へと法灯をつなげる試みだった可能性が高い。同時期に同じタミルからはブッダゴーサという学僧がスリランカに渡り、ヴィシュディ・マッガ(清浄化の道)という教典を著わしている。

達磨の教えは日本を含めた東アジアの禅仏教の起源となり、ヴィシュディ・マッガは現在でもテーラワーダ仏教圏で出家修行の百科全書的聖典として広く読み継がれている。そしてヴィクラマシーラ僧院の法灯はチベット仏教へと受け継がれ、ダライ・ラマの教えとなって現代に花開いたのだ。

かつて日本で参禅し、タイやスリランカでテーラワーダ仏教について学んだ私にとって、それは決して他人事ではない生々しい歴史だった。インドのチャクラ意識を追い続ける内に、いつしか宗教とは何か、生きるとは何かと言った時空を超えた根源的な人間ドラマを、見せつけられている気がしていた。


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