2011年9月20日火曜日

どん底からの再生


2008年4月末、私はようやくの思いで日本に帰国した。

ニュー・デリー駅で一万枚を超える写真データとパスポートを含む貴重品のすべてを失った私は、もはや自力だけではどうにもならない状況に追い込まれていた。現金は財布の中にある程度は残っていたが、パスポートがなければ外国人はホテルに泊まることすらできないのだ。

この絶体絶命の中で私が真っ先に思い至ったのが、これまでも色々な所でお世話になった日本山妙法寺だった。忙しさにかまけて今回もお参りは果たせなかったが、デリーには日本山の道場があったはずなのだ。私は藁にもすがる気持ちで、インドラプラスタにあるお寺に文字通り駆け込んだのだった。

私はそこで、約3週間を過ごした。突然転がりこんできた私を克庵主さんは優しく受け入れてくださったばかりでなく、第一の難関である警察での盗難証明の取得に際しては、ほぼ一日がかりでヒンディ語の通訳までしていただいた。そしてパスポートの再発行やヴィザの再取得などインドでは想像を絶するお役所仕事に立ち向かいながら、私は毎日朝晩南無妙法蓮華経を唱え、法華経を読み、そして本堂の前に聳える白く巨大なシャンティ・ストゥーパ(仏舎利塔)を仰ぎつづけた。

日本山デリー道場のシャンティ・ストゥーパ

ほとんどの読者の方は、インドにおけるお役所仕事がいかに難攻不落のラビリンスであるか、理解できないことだろう。おそらくたった一人では、私は精神の安定を維持できなかったに違いない。

それが御修行の功徳というものだろうか。デリーでの最後の時間は意外なほど淡々と過ぎ、何とかすべてのハードルをクリアして、私は無事日本に帰国した。そして記憶が薄れない内にと前章までの内容と若干の終章を加えた原稿を一気に書き上げ、いくつかの出版社に出版についての相談を持ちかけた。しかしどの出版社からもはかばかしい返事はなかった。

それ自体は私にとって失望ではなかった。写真データを失くした分その内容は中途半端な未完の状態で、ひとつの作品として満足のいくレベルには達していなかったからだ。

本当の正念場は実はここからだった。デリーにいた時はそれでも目の前に絶対にやらなければならない課題を突き付けられていた。そして原稿を書いている間はそれに全力で集中していれば良かった。けれど、そのすべてが終わった時、私の心はどうしょうもない虚無感に取りつかれてしまったのだ。

私はこの三年の間、かつて青春の一時期を共に過ごした、大好きなインドの為にこの仕事をするのだ、と言う使命感を持って旅をしてきた。実際私は、マイナーなインド武術を世界に紹介するために、すべて手弁当で今までの仕事を行ってきた。いくら好きな事とは言え、一銭の金にもならない事に、全生活を捧げてきたと言っても言い過ぎではない。その事実が、いつしか心のどこかに『仕事をしてやってるんだ』と言う驕りにも似た気持ちを生み出していたのかも知れない。

それが、たとえ悪人とは言え、当のインド人から強烈なしっぺ返しを受けてしまった。6ヶ月間撮りためた写真と、全財産を奪われるという形で。今までやってきた全ての仕事が、当のインド人によって完全に否定されてしまった。この思いが、時が経つにつれて私の心を苛み始めていたのだ。今までの苦労は一体何だったんだろうか?そして、これ以上この仕事を続けることに、意味があるのだろうかと。

さらにたたみかける様に、あの盗難の瞬間の記憶が時がたつにつれてより鮮烈に蘇って来る。その繰り返し襲ってくるフラッシュバックが私の心をさらに消耗させていった。まるで自分の不注意でわが子を失ってしまった親の様に、私は激しい後悔にさいなまれた。

あの時ショルダーを上段に置いておきさえすれば、いや、それ以前に身体から離しさえしなければ、いや、いや・・・。最後の出版社からの返事を待ちながらも、私の心は底なしの泥沼状態から抜け出す事が出来なかった。

こんな事ではいけない。デリーでの、あのある種すがすがしい毎日を思い出し、私は仙台にある旧知の日本山道場へ向かったのだった。

二週間に及ぶ仙台滞在から帰宅した私を、一通のメールが待っていた。それは日本山新潟道場の浅井お上人からのものだった。彼は日印サルボダヤ交友会の会報の編集に携わっており、その会報に何かインドに関する原稿を書いてみないか、というお誘いだった。それは今思えば、デリーで盗難に遭ってひどく落ち込んでいる私の事を誰かから聞き及んで、何か気晴らしの仕事でも与えてやろうという親心だったのかも知れない。だがそれは私にとって、結果的に大きな転機をもたらしたのだった。

原稿を書くにあたって、編集部から見本としていただいたサルボダヤ誌のバックナンバーを見て、私は軽い戦慄を覚えた。そこに布一枚に身を包んで棒をついて歩くガンディ翁の姿があったからだ。もちろんそれはガンディ翁の代名詞的な姿であり、私にとってもおなじみの絵柄だった。だがその時、彼が手に持つ一本の棒に私の意識は吸いついたように固定され、目をそらす事が出来なかったのだ。

『ガンディ翁は何故棒を持っているのだろう?』

それは、唐突とも言える疑問だった。

それは、私の棒術に対する過剰なこだわりがもたらした疑問だったのかも知れない。だが、事はそれだけではすまなかったのだ。

ガンディ翁と書いたように、私たちが目にする彼の写真や肖像は晩年のものが多く、手にした棒は歩行を助ける杖だとみなされがちだ。だが本当にそうだろうか?確か以前見た若い頃の写真にも、同じように棒を持った姿があったはずだ。この棒には杖以上の何かもっと深い意味があるのではないだろうか?私の直感が、その時そう囁いていた。

『これはダンダじゃないのか?』

目から鱗が取れるような衝撃とともに、私は心の中で叫んでいた。

この瞬間、それまで上辺でしかチャクラを見ていなかった私の視点は、大きく転換する事となった。

ダンダを持つガンディ翁

私の心は走馬灯のように駆け巡って、これまでの3年間延べ18か月に及ぶインド滞在をレヴューしていた。そのあちこちに、一本の棒が印象的な役割を果たしている光景が浮かび上がっていった。私の心から一切の迷いが吹き飛んでいた。私は高速でハード・ディスクを検索するコンピュータの様に、一心に記憶をまさぐり続けた。



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