2011年9月23日金曜日

法輪の中心にあって、それを転回せしめるブッダ

法輪の中心にあって、それを転回せしめるブッダ

次に私が焦点を合わせたのは当然のように仏教だった。ヒンドゥ教において、車輪の中心にありその回転を支える車軸=ダンダが至高の神を表すのならば、それは当然、仏教においてはブッダ(大乗においては法身の仏)でなければならない。つまり車軸はブッダであり、ダンダはブッダなのだ。だがそれを証明できるデータが存在するだろうか。私はそもそもの原点である、古代仏教におけるブッダのシンボリズムを再検討してみた。

サンチーのストゥーパが華やかに荘厳されていた頃、ブッダは未だ人の姿をした仏像としては描かれず、様々な代用デザインによって象徴されていた事は前に書いた。それは法の車輪やブッダの舎利(遺骨)を収めたストゥーパ、その下で覚りを開いた菩提樹、聖なるチャトラ(傘蓋)、清浄なる蓮の華などだった。以前と違ってすでに車輪と『車軸』というイデアを獲得した私の目には、やがてこれらの表象に一貫するある特徴が明らかに浮かび上がって来たのだ。

最初に法輪から見てみよう。ヒンドゥ教の場合と同じように、私はこれまでそこに車軸の存在を意識したことはなかった。そこで改めて様々な画像データを詳しくチェックしてみると、一部の例外を除いて、そこには目立たないながらも必ず車軸が描かれており、車軸が省略されて空洞のハブ穴が描かれたものはほとんどなかった。そもそもブッダによって法の車輪が転じられたという事は、ブッダが主語であり法輪は目的語である。つまり両者は明確に別々のものだと理解されるべきだろう。今までの流れから見れば、法の車輪が転じられたのならば、その中心にあって回転を支える車軸こそが、当然主語であるブッダという事になる。

この件に関してはヒンドゥ教の場合と比べて強力な証拠は発見できていない。だがシュンガ朝の時代、BC1世紀前後のバルフートの遺物に描かれた法輪信仰に興味深い絵柄があるのでここに紹介したい。

ストゥーパの欄楯彫刻の中で、人々によって礼拝されている法輪の中央にやや誇張された大きい車軸が描かれ、その上に花輪と思われる飾りが献供されている図柄が確認できるのだ。これは現代インドでも普遍的に行われている神々への供養であり、一般には神像の首に花輪がかけられる。この誇張された車軸とそこに供養された花輪のモチーフは、当時の人々が車軸をブッダそのものだと認識していたひとつの表れではないかと私は思う。同じ図柄は同時代のサンチー第二ストゥーパにも存在し、その地理的距離から言っても、北インド全体で同じ様な信仰が共有されていた可能性が高い。

バルフートの法輪信仰

『車軸=ダンダ』との関連でもうひとつ、日本の仏教について取り上げたい。日本では中世頃から仏教が大衆化し、その中で聖と呼ばれる行者たちが人々の人気を集めた。そして彼らの多くが錫杖と呼ばれる棒を手に全国を行脚したことが知られている。調べてみると、この錫杖は仏陀の知恵を象徴すると言い、真言密教の四国八十八か所の巡礼において、お遍路さんがその手に持つ杖が同行二人の弘法大師を表すのも同じ文脈だろう。ここに潜在している思想こそが、車軸=ダンダ=ブッダだと私は睨んでいる。

棒を手に遊行する行者。これと同じイメージを以前にも見た記憶がある。そうそれはヒンドゥのサドゥが遊行する姿であり、ガンディ翁が遊行する姿だった。そしてその手に持つダンダは、単なる神の属性ではなく神そのものだったはずだ。

実は歴史的に見ると、一所不住の遊行をその修行生活の根幹に据えたのは原始仏教が最初であり、それ以前のバラモン教の中にはそのような要素は見受けられない。ならば本来、ダンダを持って遊行するスタイルを最初に確立したのも、仏教僧侶だった可能性が高いのだ。そしてその手には、ブッダ自身を象徴するダンダが同行二人の相棒として握られていた・・・。

実はブッダを表す尊称『世尊』は『バガヴァット』の漢訳であり、ヒンドゥ・バクティの起源とも言えるバガヴァッド・ギータのバガヴァット(神=クリシュナ)と全く同じ言葉である。おそらくそれはブッダの死後、偉大なる教主を慕って生み出された信愛(バクティ)の習慣ではなかっただろうか。その流れが遥か遠くの日本にまで伝わって、錫杖を手に遊行する聖の姿になったとしたら、何とも壮大なダンダつながりではないか。

そしてもう一つ、あまり知られていないが、日本の地蔵信仰の中に檀陀(ダンダ)地蔵というお地蔵様が存在する。これは六道輪廻の最下層の地獄界で、苦しみに喘ぐ衆生を身をもって救い出す菩薩衆の一人で、手に一本の錫杖を持った姿で表される。これなどは法身の仏が持つ無量の慈悲を、一本のダンダによって表していた可能性が高いと言える。一本の棒は、それで人を打つこともできれば、それを差し伸べて溺れる者を助ける事も出来る。一方で厳格な懲戒を表していたダンダが、一方でヴィシュヌ教とも重なりつつ寛容なる許しと救済を意味していたとも考えられるのだ。

全国津々浦々の路傍に立つお地蔵様の多くが、その手に一本の棒を持っている。あなたの家の近くにも、そんなお地蔵様がダンダと共に立っているかも知れない。

次にチャトラ(傘蓋)について考えてみよう。ひとたび車軸を垂直に立てるという発想を得ると、それはチャトラの姿と明らかに重なり合う。手で持つ柄が車軸であり、その上で展開する傘が車輪だ。

私が知る範囲ではチャトラには二種類ある。傘の部分がまっ平らなチャトラはそのまんま車輪と車軸を立てたような姿で、これは初期の仏教美術などに多く見られる。もう一つは傘の部分がドーム状に湾曲したもので、現在私たちが日常で使用しイメージする傘に近い。

平らなチャトラ

ドーム状のチャトラ

どちらにしても、これらチャトラの柄を車軸と見立てれば、傘は車輪であり、その中心から骨が放射状に展開する構造デザインは、スポーク式車輪とぴったりと重なり合う事が一目瞭然だった。

このチャトラは他のアイテムと共に、現代ヒンドゥ寺院でも聖なる神器として継承されている。特に南インドのヴィシュヌ系寺院で盛大に祝われるヴァイクンタ・エカダシという祭りでは、境内を練り歩くご本尊のヴィシュヌ神像と共にこのチャトラを持ったバラモンが随行し、その両手で捧げ持ったチャトラの柄を回転して、傘をくるくると回す儀式が存在する。人は誰しも子供の頃に傘を背中で回して遊んだ記憶があると思う。傘を車輪の様に回すという行為は、私たち人間にとってごくごく自然な発想だと言えるだろう。

次にブッダがその下で覚りを開いた聖なる菩提樹を見てみよう。それは一本の幹によって支えられた上に枝葉が樹冠となって広がっている。樹冠を真上から概念的に見れば、中心である幹から枝が放射状に展開し全体として円形のバランスを持っていて、チャトラと全く同じ構造デザインをしていることに気づく。

そして聖なる蓮の華もまた、水中からスッと立ち上がった一本の茎に中心を支えられて、その上で車輪のように華開く構図は全く同じものだった。

さらにチャマルと呼ばれる払子(聖なるハタキ)についても、柄を持って回転させて房毛を遠心力で円形に展開させる儀式がヒンドゥ教やシーク教に存在する事実がある。


れらの符合はもはや偶然の一致を超えている様に私には思えた。そしてそれを裏付ける事実がそこにはあったのだ。

基本に戻って『ダンダ』の意味を辞書で調べ直してみると(ダンダにはで始まदडで始まるडंडの二つがあるが、煩雑になるのでここでは一括りでダンダとして扱う)、基本的な意味である『棒』や懲罰以外に、植物の茎や木の幹、そして道具の柄という意味が存在したのだ。聖なるシンボルである車輪の車軸、チャトラ(傘蓋)の柄、菩提樹の幹、蓮華の茎、これらの全てが、『ダンダ』というキーワードを共有していた。これは一体何を意味するのだろうか。

私が今まで読んだインド思想に関する一般的な説明では、チャトラがブッダを象徴するのは、本来王族など貴人の上に差し掛ける日よけの傘が転じて、偉大なるブッダを象徴する様になったというものだった。だがインドという酷熱の大地では日傘はありふれた日常の道具であり、それだけでは弱すぎる。

繰り返して言うが、ヒンドゥ思想において『ダンダ』は神であり、それは当然、仏教的文脈ではブッダ、あるいは大乗的に言えば法身の仏となる可能性が高い。ダンダ=車軸がブッダであり、それに支えられて転ずる車輪が仏法であるならば、チャトラの場合は柄(ダンダ)こそがブッダであり、それに支えられて展開するキャノピーが仏法を表す事にならないだろうか。仏に支えられて開かれた法の傘が強い陽射し(苦)を遮り、功徳(救済)という癒しの日陰を人々に差し掛けたのだ。

それは当然、ヒンドゥ教的文脈においては神の恩寵を表す。ここで思い出すべきは、インドラが降らせた怒りの豪雨から人々を守るために、ゴーワルダン山を傘として持ち上げたというクリシュナ神話だろう。その光景は、正に傘の柄(ダンダ)としてのクリシュナを表している。

それは菩提樹についても同じことが言える。本来はその下でブッダが覚りを開いたことから、菩提樹がブッダ自身を象徴する様になったという解釈だった。だが菩提樹の『幹』こそがダンダであり同時にブッダであるならば、その意味は微妙に違ってくる。

一本の幹に支えられた大木の樹冠という表象は、強い日差しや雨から人々を守るチャトラ(傘)と見事に重なり合い、同時に樹木が花を咲かせ果実を実らせ、鳥などの小動物から人にいたる生き物に恵みを与える『生命の樹』とも重なり合う。それは仏に中心を支えられて展開する仏法が、仰ぎ見る樹冠の高みで枝葉が繁茂する様に興隆し、人々の心の拠り所となり心の糧を与え、人生の苦からの避難所となる姿を象徴的に意味していたと考えられるのだ。

蓮華についても同じ事が言える。『茎(ダンダ)』であるブッダに支えられて、その上で清浄なる法の華が咲き誇り、その妙なる香りは世界の隅々にまで広がって、人々の心を潤していく。それは文字通りブッダにその中心を支えられて華開く、『妙法蓮華(サッダルマ・プンダリーカ)』そのものを表していたに違いない。

これらの仮説すべてが正しいとはにわかには判断できない。けれどダンダという言葉をキーワードに、これらのシンボルを検討し直す事によって得られた新たな意味世界は、私にとって驚き以外の何ものでもなかった。

では最後のシンボルであるストゥーパはどうだろうか。これについては特に印象的な記憶がある。あの盗難事件によってデリーに缶詰めになっていたとき、私は毎日日本山のストゥーパを仰ぎ見ていた。そして思ったのだ。そう言えばこのストゥーパも円形をしていると。普段下から見上げている時はドーム状の形しか意識に上らないが、頂上に五重のチャトラを掲げた姿を真上から見れば、それはまさしくチャクラ・デザインそのものだった。だが一般にストゥーパのドームはプレーンな姿をしており、そこにはスポークに相当する構造・デザインは見当たらない。ここまでがインド再訪以前の思考過程だった。

日本山デリー道場のストゥーパ

200911月半ば、私はこの疑問を解決するきっかけを求めて、南インドのナガルジュナ・コンダを訪れていた。ここはアマラヴァティについで西暦3世紀ごろイクシュヴァク朝の下で仏教が栄えた土地だった。当時ここには世界でも有数の仏教大学があり、アジア各地から留学僧が集まったという。それは仏像を造形表現として持たない時代から、仏像がその表現の中心へと移行する時代の事で、この地独特のストゥーパ文化が花開いた。これまでインドの主だった仏跡を訪ねてきた私にとって、ここは最後の未踏の地でもあった。

ベースとなるマチェルラの町に宿を取った私は、翌日雨季のどんよりした空の下、まずはナガルジュナ・サーガルへ向かった。このサーガルとは湖の事で、遺跡を含めた広大な土地がこのダム湖の下に沈んでいる。そして発掘された遺構は、水没を免れた小高い丘、現在は島となっているナガルジュナ・コンダに移設された。のどかな客船に乗って社会見学の学生たちと一緒に島に渡った私は、ここでど真ん中とも言える事実を発見したのだ。

小降りだった雨は、島に渡るとすぐにどしゃ降りに変わっていた。私は野外展示を後回しにして駆け込む様に博物館に入った。人の姿をとったブッダ像と仏伝に即したストーリー性豊かな彫刻表現、当時のストゥーパ崇拝をリアルに記録したパネルなど、どれも素晴らしい展示だったが、その中に遺跡の全体像を俯瞰する立体ジオラマの小コーナーがあった。いかにも地味なその小部屋に期待もせずに入っていった私は、のっけから脳天をどやしつけられる様な衝撃に見舞われていた。

そこにあったのはレンガの基礎だけが発掘されたストーパの基壇だった。それが、見事なスポーク式車輪の形をしていたのだ。ストゥーパの造形の内部に、車輪のイデアが文字通り隠されていた!私はあまりの驚きに声が出なかった。残念ながら博物館内は写真撮影禁止だったが、受付で販売していた考古局のブックレットの中にこの件に関する解説と図版があったので引用しよう。

ストゥーパ8の基礎構造

「一般にレンガを敷き詰めて建てられた北インドのストゥーパと違って、ここナガルジュナ・コンダのストゥーパはハブ、スポーク、タイヤなどを完璧に備えた車輪の基礎プランによって建てられている。レンガで造られた放射状の擁壁と擁壁の間は土で埋められ、ドームの外壁はレンガによってすべて覆われる。平面プランとしては車輪のスポークである擁壁は立体的なドームとなった時には巨大なアンブレラの骨組みとなってストゥーパを構造的に支える」

この報告のオリジナルは、1936年当時セイロン(現スリランカ)の考古局長官であったイギリス人A.H.ロングハーストによって書かれたものだが、明らかに彼はここで、このストゥーパの基礎プランが車輪とチャトラをベースにしている、と考えていた事がわかる。

だが一般に円形ドーム状の建造物を建てる場合、その基礎として放射状の支持構造を用いるというのは極めて自然な発想で、そのことだけを持って、これが車輪やチャトラをベースしている、という明らかな証拠にはならないだろう。だが次のマハ・ストゥーパの基礎プランを見た時に、ロングハーストの仮説は私の中でよりリアリティを増したのだった。

ここナガルジュナ・コンダの遺跡は大学と僧院が同居した複合施設なのだが、その広大な敷地のあちこちに小ストーパが点在していた。そしてそのすべてが4本から12本(すべて偶数本で実際の車輪におけるスポーク数とも重なり合う)のスポーク構造の基礎プランを持っていた事がわかっている。中には明らかに卍の形をした基礎プランも存在し、それが単なる物理構造ではない事を主張して非常に興味深い。

そして、メインとなる巨大なマハ・ストゥーパの基礎プランは、それらとは一線を画した重層構造をしていた。おそらくそれはサイズの問題が主な理由で、支持構造としての強度を高めるためもあったのだろう。その基礎プランはそれぞれが隔壁によって区切られた三重の同心円構造だったのだ。

マハ・ストゥーパの基礎プラン

だがそのデザインを見た瞬間、私はまったく違う場所で見た別の図柄を思い出していた。

カイラサ寺院屋根上の華輪

それは上に再掲した、カイラーサ寺院の屋根に見られる華輪デザインだった。比べて見れば一目瞭然なのだが、カイラーサ寺院の華輪デザインは内輪と中輪、中輪と外輪の花弁の軸が交互にずれており、その構図はそのままマハ・ストゥーパの基礎プランと重なり合うのだ。同じ華輪のデザインは、カルカッタのインド博物館に展示された、ガンダーラ地方のストゥーパの表面にも施されており、その他、インド全土の吉祥華輪においても遍く共有されている事実がある。

ガンダーラの華輪ストゥーパ

この時代、聖なる車輪と蓮の華輪が一体視されていた事を前提にすれば、ロングハーストが言うように小ストゥーパの基礎プランは法の車輪を、さらにマハ・ストゥーパの基礎プランは蓮の華輪をベースにしていた可能性が高いと言えるだろう。華輪や車輪の基礎プランと立体化したチャトラの結界によって上下を挟むことで、その内部空間(実際にはすべて土で埋められていた)は完全に聖別され、ブッダや高僧の舎利が持つ法力を永遠に保存する密閉カプセルとなった。

確かに北インドで発掘された他のストゥーパではチャクラ・デザインとの関連性を指摘できる様な証拠は挙がっていない。だが、地理的にも相当離れた複数地点でデザインの符合が見られる事から、この仮説は十分以上の信憑性を持っていると私は判断している。

仏教が滅びると共にそのストゥーパ文化もインドでは滅んでしまったのだが、アショカ王の時代から続く仏教国としての長い歴史を持つスリランカ、密教が伝わったチベットやネパールなどでは、現在に至るまでこのストゥーパ文化が継承されている。私はかつて、アジアを放浪した時にネパールとスリランカを訪れて実際にストゥーパも見ている。そしてチベット仏教ついては、亡命政府のあるダラムシャラーをはじめインド各地で多くの寺院を見ることができる。それらに加え、ネットを渉猟して集めたデータを総合すると、ストゥーパと車輪との不可分一体の関係性が更に浮かび上がってくるのだ。

ナガルジュナ・コンダのストゥーパでは、その内部基礎プランにチャクラ・デザインを見ることができた。その中心にある円形や四角の車軸は、ストゥーパが立体的に立ち上がりドームとなった時、同時に立ち上がって直立した支柱になり、チャトラの柄となる。そしてこのストゥーパの中心にある軸構造を、チベット仏教に伝わったストゥーパ(チョルテン)の中に、よりはっきりとした形で確認する事ができるのだ。そして車軸やチャトラの柄がダンダでありブッダそのものであったという私の仮説が正しければ、その軸構造はブッダそのもののメタファーであった可能性が高い。

チョルテンの内部構造。中心に軸柱が見える

この様な中心軸は、実は日本の法隆寺五重塔にも存在する。心柱と呼ばれる長大な柱が塔の中心を貫くように屹立しているのだ。それは建物の支持構造とは直接の関わりをもたず、頂上の九輪を支えるだけであり、その存在理由についてはこれまでも様々な事が言われてきた。法隆寺が創建以来千数百年の間一度も地震などで倒れていない理由として、この心柱が持つ緩衝作用によるというのもひとつの仮説だ。

だが、インドのストゥーパ文化が長い旅路の末に極東アジアの果てにある日本にたどり着いた、それこそがこの五重塔であり、五重塔は本来的にはストゥーパであった。ならばこの心柱もまたブッダそのものを象徴していた可能性が十分に考えられる。ストゥーパと車輪との重なりを前提にすれば、心柱は法の車輪の中心にある車軸としての『御仏』として設置された可能性が高い。それが‘思いもかけず’五重塔を地震などの災害から守ったとしたら、これこそ正に仏の加護と言わなければならないだろう。

法隆寺五重塔とその心柱

そして更に、車輪と車軸の構造を内包するストーパ自体が巨視的に見れば車軸となるという、ロシアのマトリョーシカ人形の様な『入れ子構造』が明らかとなる。成道の地ブッダガヤで訪ねたチベット寺院で、私は実に印象的な仏塔を発見した。中心にあるスリムなチョルテンを車軸に、巨大化した欄楯を外輪に見立てれば、それは車輪システムそのものの姿をしていたのだ。


車軸としてのチョルテン、ブッダガヤ

この車軸としてのストゥーパはネパールのカトマンドゥにあるボダナート・ストゥーパを見るとよりリアルに実感できる。ネットで得たおそらくは航空写真と思われるその構図は、正にチャクラ・デザインの核心にある車軸としてのストゥーパの存在を鮮明に描き出し、同時にその全体像はシヴァ・リンガムとも見事に重なり合う。この様な構図は、インドネシアのボロブドール仏教遺跡などでも普遍的に確認する事が出来る。そして思い出して欲しい、ストゥーパとは本来その中心に仏舎利、すなわちブッダそのものを収めた容器だったという事実を。私の中で、いまやストゥーパと車輪(輪軸)との関係性は、確信に近いものに変わっていた。


軸としてのストゥーパ、ボダナート

余談になるが、現在全インド教に共有される『右繞(うにょう)』という礼拝作法がある。これは寺院の本殿やご本尊を拝する時に、人間の体の聖なる右側を中心に向けて歩いて回る儀礼で、その起源は古代仏教のストゥーパ文化にまで遡ると言われている。ストゥーパを車軸に見立て欄楯を車輪(リムあるいはタイヤ)と見立てた時、その間を回る信者の動きはスポークに相当する。信者自らが法の車輪のスポークとなってそれを支え回す姿は、在家主体の大乗仏教思想を象徴しないだろうか。これはそれを回す事によって功徳を得るというチベット仏教のマニ車とも関連して、とても興味深い研究テーマだと思う。

以上見てきたように、初期仏教においてブッダそのものを表していたほとんどすべてのシンボルが、車輪と車軸のイデアによって文字通り貫徹されていた事が分かった。この事実は次節において更なる展開をもたらす事になる。





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