2011年9月27日火曜日

身体の中心にあって、それを展開せしめるダンダ


メール山をヒンディ語辞書で確認していた時、私は不思議な単語を発見した。その名は『メール・ダンダ』。それは人の体幹を支える背骨(脊柱)を意味する言葉だった。身体の中心にあるメール山としてのダンダ。このいかにも意味ありげなネーミングに興味をひかれた私は、再び脳内とパソコンとネット上の情報を検索して回った。そして明らかになったインド的身体観。それは前節までに述べてきた全ての『中心』概念を文字通り体現するものだった。

タントラ・シャクティに基づいたヨーガの身体観において、私たちの身体に重なるようにして目に見えない霊的微細身が存在する事は前に書いた。そこにはプラーナが流れる大小のナディ(脈管)が想定され、背骨と重なる中心的な脈管がスシュムナー管だった。そして、このスシュムナー管の周りをらせん状にイダーとピンガラー管が取り巻いている。そして、このイダーは月の回路を、ピンガラーは太陽の回路を意味し、中央のスシュムナー管は須弥山に擬せられる事が分かったのだ。これは体内に須弥山の構図がそのまま再現されている事を意味する。

ここにインド的身体観の特徴が明確に表れている。つまり身体を含めた人間存在の全てをミクロ・コスモスと見なし、マクロ・コスモスである世界の縮図ととらえるのだ。大宇宙の中心にブラフマンというスカンバが立つ様に、小宇宙である人体の中心には背骨(スシュムナー管、以下同)が、『メール・ダンダ』の名前で直立する。これは個我の本質であるアートマンが実はブラフマンと同一である、というウパニシャッドの思想とも深い関わりを持っている。

スカンバがマクロ・コスモスの車軸であるならば、メール・ダンダである背骨もまたミクロ・コスモスの車軸に他ならない。世間に流布しているヨーガ・チャクラ図を見ると、各チャクラの円盤面が正面を向いて描かれる事がほとんどだ。そのため私たちはつい錯覚してしまうのだが、実は本来のチャクラは背骨を車軸に見立てた時に車輪となるように、地面に対して水平に存在している。だがヴィジュアル的に見て、盤面を正面に向けた方が美しいために便宜的にそう描かれるのだ。これはヨーガ・チャクラ図を詳細に見れば、ひと目で確認できる事実だった。


中央をスシュムナー管に貫かれたアナハタ・チャクラ

各チャクラを車軸に貫かれて七層に重なる車輪とみれば、その構図はストゥーパ頂上に立つ多重チャトラや五重塔の九輪、そしてカラリ道場のプータラとも重なり合う事が容易に理解できるだろう。

実はストゥーパの形について、それはブッダが坐禅している姿を表すという説がある。確かに日本山によく見られる様な釣鐘型のストゥーパは、そのドームの丸みが肩の丸みと重なり合い、瞑想する人の坐形をも思わせるのだ。だとすると、その中心にある柱は当然脊柱の寓意となり、チョルテンの軸柱構造や五重塔の心柱がまた違った意味を持って見えて来るだろう。


一方、法身の毘廬舎那仏が蓮華蔵世界の中心上空に坐する姿をイメージすれば、その直立する背骨はマクロ・コスモスの巨大なスカンバとなる。その大なるスカンバと小宇宙なる人のダンダ(背骨)とが重なり合い、さらに法身の仏と個々の衆生が持つという仏性とが重なり合い、それはブラフマンとアートマンの仏教版とも考えうる。

そしてダンダが持つもうひとつの意味が蓮華の『茎』であった事を考えた時、更なるイメージが明らかになる。背骨の最下部、会陰のチャクラはムーラダーラと呼ばれ、それは『根』のチャクラを意味している。そこで目覚めたクンダリーニのエナジーは『茎』である背骨を真っ直ぐに上昇し、ついには頭頂部にサハスラーラ・チャクラ、すなわち『千の花弁の蓮華』を開花させる。これは前に記述した、

『水底の泥に埋まる根が世俗での生活を、濁った水中を上昇する茎が神を目指す精進を、水面を離れた空中で太陽を受けて花開く蓮華が解脱を表す』

という、あの聖なる蓮華観の体内における再現に他ならない。

車軸に貫かれた車輪の様に、茎に支えられて花開く蓮華の様に、クンダリーニに貫かれた各チャクラは活性化し、頭頂部のサハスラーラ・チャクラにおいて満開の華輪を開く。それはメール山や蓮華蔵世界、ローカ・パドマとも重なり合い、身体の中に構築された大宇宙、チャクラ・ボディの完成を意味していた。

ヨーガ・アサナを初めて習った時、私は『ヨーガはそのポーズの取り方によって三つに分類できる』と説明を受けた記憶がある。最初は背骨を前後に曲げ伸ばす運動。次に背骨を左右にひねる運動。最後に背骨を両サイドに横曲げする運動。中でも重要なのが最初の運動で、前屈系のパスチモッターナ・アサナやハラー・アサナ、後屈系のブッジャンガ・アサナやチャクラ・アサナなど、最も重要なポーズはほとんどこれに含まれている。つまりヨーガ・アサナとは、背骨を曲げ伸ばす運動と同義なのだ。

そこには、背骨を可能な限り柔軟にし、活性化する事によって、重なり合うスシュムナー管にプラーナを通し、もってクンダリーニの覚醒とチャクラの活性化をはかる、という方法論があった。そしてその背後には、ミクロ・コスモスの車軸である脊柱(ダンダ)をアートマンと見立て、マクロ・コスモスの車軸でありスカンバであるブラフマン(シヴァ)に帰着させようとする思想が潜在している。アートマンの活性化に呼応してブラフマンも活性化し、二つのエナジーが引き合ってそこに神人合一が成就される。これこそがハタ・ヨーガ実践の究極のゴールなのだ。

そしてこのような考え方はヨーガだけにとどまらず、武術をはじめとした身体文化すべてに通奏低音のように伏流していた。インド語でエクササイズを表す言葉に『ヴャヤム』があったのを覚えているだろうか。その意味は『すべての方向に曲げ伸ばす』だった。今思えば、その核心にある焦点こそが『背骨』だったのだ。振り返ってみれば、クシュティのエクササイズを始め、マラカンブやメイパヤット、そして棒術の回転技に至る、すべてに共通するのが、この背骨に対する強烈な働きかけだった(ここで言う『背骨』とは、頸椎から仙骨先端の尾骨までを意味し、広義には頭がい骨とその内部の脳をも含む)。

クシュティのラッサは、吊り下げられたロープを両手の力だけで登るエクササイズだった。両手で交互にロープをつかみ身体を引き上げていく動きは、わかりやすく言うとトカゲの歩行に似た背骨のうねりを生み出す。文字通りダンダという名の腕立て伏せでは、ダイナミックな背中の曲げ伸ばしがその特徴だった。マラカンブについては柱上のヨーガという異名がその本質をよく表し、説明の必要さえないだろう。

カラリパヤットの場合も同じことが言える。段階的な蹴りのエクササイズから始まり180度開脚に終わるメイパヤット。さらに前屈して両手を前についた状態から手を離さずに上体を旋回させる360度旋回ブリッジに至るすべてが、実に強烈な背骨への働きかけに他ならない。これは私自身の実体験からも深く頷けるのだ。


背骨に強烈に働きかけるメイパヤット

ある時私は、ヴィジャヤン・グルッカルの娘で英語が話せる事から師範代として私の指導をしてくれたカヴィータ嬢に、稽古中裸の背筋をすうっと撫でられてゾクッとした事がある。彼女が二十代の魅力的な女性だった事もあって、一瞬私はドキッとした。けれど真剣な彼女の眼に見つめられて、すぐにその勘違いに恥じ入ったものだ。

聞けば象のポーズやライオンのポーズ、ニーキ・デルテと呼ばれるイノシシのポーズなど、下半身の重心を極端に落として上体を起こした姿勢では、仙骨から腰椎にかけての『反り』を常に一定以上に保ちながら、決して猫背にならずに背筋を起こし続けることが一番重要なのだという。そして、この体勢が実にきつい。身体の固い私にとっては蹴り以上に泣きが入ったものだった。

そして棒術の回転技ついても、目立たないながらこの原理は共通している。棒を回しながら頭上で左右の持ち手を変える時、その背筋は大きく反り、お尻の後ろで持ち替える時は逆に背筋が前かがみになる。左右の体側で持ち手を変える時体幹は大きく捻じれ、ステップと共に棒の回転を切り返す時もまた大きな体幹のひねりを伴う。更に上級レベルのダブル・スティックでは、両手に一本ずつ持った棒を同時に回すことによって、ラッサ以上の体幹のうねりを生み出している。本稿ではこれ以上の詳述は控えたいが、その動きのすべてが、やんわりと時に激しく、体幹の柔軟性を開発していくのだ。

インド式エクササイズは、背骨(体幹)の柔軟性というものをかように重視する。そこには『柔軟な背骨はすべての病を防ぐ』という言葉すらある。これこそがインド武術の第一印象である『異質な身体観』の核心だったのだ。そして興味深いのはこの『すべての病』の中にメンタルな要素も含まれている点だ。

近年さまざまな形で瞑想というものが私たちの生活の中で身近になってきているが、そのほとんどがインドにその起源を発している。そして坐って瞑想するとき、最も重視されるのが、背骨を立てると言う事、さらに仙骨から腰椎にかけての反りが重視される事だろう。

背骨とは単に物理的に体幹を支えるだけではなく、内部を通る脊髄は脳に次ぐ最も密度の高い神経中枢である。背骨を立て、常に背骨コンシャスであることによって、内部を走る神経中枢そのものが活性化し自ずから瞑想の深化がもたらされる。インド的エクササイズにおいて背骨を柔軟に動かすということは、単に物理的、生理的観点だけではなく、全身の神経システムが大動脈的に集まる脊髄中枢そのものの活性化と集中力の強化を意味するのだ。

背骨コンシャスに坐り、運動する。このことは心の座である脳にダイレクトに作用する。もちろん、脳は身体システム全体のオペレータであり、システム全体のバランスをとり、あるいは免疫などの生体防御システムを制御するものでもある。そしてそれらの指令はすべて背骨(脊髄神経)という第二の中枢を通じて全身に展開分配される。そして、残念な事に、私たちはこの脳を物理的に運動させる事は出来ない。それは頭がい骨という完全にシールドされたカプセルに守られて、外部からの働きかけを拒んでいる(唯一の例外がアルカロイドという脳内活性物質だがここでは触れない)。わかりやすく言えば、私たちは脳をストレッチする事も出来ず、マッサージすることもできない。そこで重要になるのが背骨の存在なのだ。

背骨を柔軟に動かし、背骨コンシャスに瞑想することによって、それはダイレクトに脳そのものに作用し、そのメンテを行い活性化させる。その集中は、心と身体のすべてを神経レベルでチューンナップし、戦士にとって最大の障害となる『恐怖』をも克服する。インドのフィジカル・エクササイズの隠された目的が実はここにある。どんなに太い筋肉でその身を鎧おうとも、それを操作する神経系、さらに総合司令塔である脳や心がシャープでなければ、身体は動かない。特にそれが戦場という極限状態であればなおさらだろう。

私たちの身体の中心には一本のダンダがある。それは身体というインナー・スペースを物理的、『神』経的に支える柱だ。ダンダが『神』であった事を思い出す時、背骨はイコール神そのものをも含意する。その内なる小なる神を活性化する事によって、世界の柱である外なる大いなる神もまた活性化される。そして二つの神が交感しつながった時、戦士はあらゆる恐怖から解き放たれ最高度のパフォーマンスを発揮し、瞑想者は解脱を得る。インド的エクササイズとは、その根底にあるアートマンとブラフマンの思想を、ひとつの方法論として見事なまでに具体化し実践化したものだった。

この様な、背骨をダンダと見る思想を前提にすると、神仏像の造形デザインにまた新たな光を当てる事ができる。例えば、蓮華蔵世界観に基づいて蓮華座の上に神仏が坐し、その上にチャトラや菩提樹が掲げられている場合、それは蓮の茎から背骨をへて傘の柄や菩提樹の幹に至る、一本の壮大なダンダ連なりと見る事ができるのだ。この様な構図はジャイナ教やヒンドゥ教においても普遍的に採用されていて、聖なるダンダ、あるいは神的なスカンバによって一貫されている世界観を、見事に象徴していると言えるだろう。

パールヴァティ像に見る中心ダンダの四連続連なり。

サモウシャラン図に見る中心ダンダの五連続連なり

人の身体と一本のダンダを重ね合わせる思想は、ヨーガや武術以外の日常的な宗教実践の中にも違った形で表れている。それが五体投地だ。これは身体を真っ直ぐに伸ばしさらに両腕を頭上に挙げた状態で、大地に全身を投げ出して神仏を伏し拝むというもので、日本や東アジアの仏教はもとより、チベット仏教において、そしてヒンドゥ教やジャイナ教、シーク教に至る全インド教において、最上の礼拝法として現代に至るまで脈々と伝えられてきた。

これら五体を大地に投げ出す礼拝法をヒンディ語ではダンダ・ヴァットあるいはダンダ・プラナームと呼ぶ。それは文字通りダンダの礼拝法なのだ。考えてみるとほかの動物と違って直立二足歩行をする人間の身体は、そのままで棒や柱に見えない事はない。意味はまったく違うが、日本語の人柱などという言葉もこの間の消息をよく表している。両手両足を真っ直ぐに伸ばして、文字通り手も足も出ない棒状に身体を投げ出して礼拝する姿は、神仏であるダンダを見事に『模倣』してもいる。それは至高者に対する完全な帰依と自己放擲を、象徴的に表した身体祈願の法だったのだろう。

そしてもちろん、大地に身を投げ出しては立ち上がり再び投げ出すというその動きが、背骨を大いに活性化する事は言うまでもない。五体投地行の繰り返しによって人の心はより繊細にチューニングされ、信仰という心の働きは、ますます深まっていくに違いないのだ。


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