2011年10月15日土曜日

蘇るダルマ・チャクラ


仏教が滅びた13世紀、それはヒンドゥ教やジャイナ教にとっても過酷な時代の始まりを意味していた。外来勢力であり、偶像崇拝を否定するムスリム達は徹底的に寺院を破壊し、全てのインド教を抑圧していったからだ。彼らの受難と雌伏は16世紀のムガル帝国成立によってさらに決定的となり、その後のイギリス植民地支配の過酷な収奪と共にそのピークを迎えた。チャクラのイデアをまったく共有しない強大な支配者の登場によって、インドにおけるチャクラの神威は地に落ち、徹底的に踏みにじられたのだ。

しかしどんな暗い夜も、必ず朝を迎える。イギリス東インド会社が植民地支配を円滑化するために養成したインド人中間層の中から、やがて大インド主義とも呼べる民族意識が台頭していく。それは、破壊と収奪しか考えない西欧文明のアダルマに対する、絶対的なアンチ・テーゼとしてのダルマ思想の高揚だった。やがてそれは、ダンダを手に非暴力、不服従を掲げたマハトマ・ガンディの、サティヤ・グラハ(真理の把持)運動へと収斂していったのだ。

インドでは伝統的にサティヤ(真理)=神であった。これまでの文脈に従えば、そこにはダンダ=ヴィシュヌ=サティヤの等式が成り立つ。つまり、ガンディ翁が一本のダンダをその手につかみ持ち歩く姿は、ダイレクトに『サティヤ・グラハ(真理=神の把持)』の姿そのものだと理解できるだろう。それは数千年の時を経て繰り返された、反インドラの運動だったのかも知れない。彼の思想とその運動は奇跡的に全インドをひとつにまとめ上げ、ついに1947年、イギリスからの独立を勝ち取ったのだ。

一方、独立運動全体の象徴となったのは、インド国民会議派の旗に掲げられたチャルカと呼ばれる『糸車』だった。イギリス植民地下のインドでは国産の綿花が安く買い叩かれ、それを原料とした安い工業製品の織物が産業革命後のイギリスから大量に国内に還流し、インド在来の質の高い手織りの織物が衰退していくという、二重三重の構造的搾取にあえいでいた。イギリスから輸入される安い工業製品ではなく、国産品(スワデシ)を奨励することによって構造的搾取に対抗していく、その象徴として手回しの糸車チャルカが選ばれたのだ。

ガンディと糸車チャルカ

だが、糸車は同時に聖なる車輪ではなかっただろうか。悪(アダルマ)が栄え、正義(ダルマ)が衰退するとき、ヴィシュヌ神はアヴァターラの姿をとってこの世に光臨し、破邪の究極兵器スダルシャン・チャクラを投じて悪を滅ぼし、世界に法と秩序を再興するという。イギリス植民地支配という圧倒的なアダルマに対して、それはヴィシュヌ神がダルマを回復するために投じた、スダルシャン・チャクラではなかっただろうか。

ガンディ翁が象徴的にチャルカを回すとき、同時にそれは、自らが革命の『車軸』となってインド開放という未曾有の民衆運動を創造し支え転回していくメタファーであり決意だったと言えないだろうか。それを象徴するかのように、彼の手には車軸でありヴィシュヌでありサティヤであるダンダが、しっかりと握られていた。やがて彼が投じたダルマの車輪はイギリス植民地支配のアダルマを見事に粉砕し、新生独立インド国旗の中央には、糸車に替わってアショカ石柱の法輪が高々と掲げられたのだ。

当時、ガンディを始めとした独立の父達に、『チャクラの国インド』という認識があったかどうか私は知らない。けれど、あたかも歴史の必然の様に、インド国民統合の象徴としてダルマ・チャクラは復活をとげたのだった。

残念な事に、暗殺に倒れたガンディ翁の遺骸を包む事が、その国旗の最初の仕事となってしまった。けれど彼の成し遂げた偉業は現代における巨大な精神的支柱(スタンバ)となって聳え立ち、マンデラ氏やキング牧師、そしてオバマ大統領など多くの継承者を生み出すに至った。彼が転じたダルマ・チャクラの運動、それはこれからも、決して止まることはないだろう。

新生インド共和国は国旗にダルマ・チャクラを掲げるだけに止まらず、アショカ王のダルマの思想の根源ともなった仏教の復興にも力を注ぐ事になった。正覚を得たブッダガヤ、初転法輪の地サールナート、大涅槃の地クシナガラ、誕生の地ルンビニー(現ネパール)の四大聖地を始め、遊行説法の地ヴァイシャーリーや法華経が説かれたラージギールなど、多くの仏教所縁の地が復興された。それはその後のアジアの仏教国の経済発展と共に、仏跡巡礼の爆発的な流行をもたらしていった。

そのプロセスには、スリランカやミャンマーなど古くから仏跡復興に力を入れていたテーラワーダ諸国だけでなく、独立前後にインドで活躍した日本山妙法寺が大きな力を発揮した事も、忘れてはならないだろう。

現在、非仏教徒である欧米人も含め、世界中から巡礼者を集めるようになったブッダガヤには、アジアの仏教国によって建てられた寺院が50近く存在する。新生インド共和国を祝福するように高々と掲げられた各寺院の法輪は、あたかもアショカ時代におけるダルマ・チャクラの栄光を取り戻したかのようだった。

ブッダガヤの大塔

それは外国人だけではない。国旗に掲げられたアショカ王のダルマ・チャクラは、その歴史的由来と共にインド全土の学校で教えられ、彼の思想と業績はブッダの教えと共に、宗教宗派を問わず全国民によって共有される精神的資産となった。そして喜ばしい事に、新生インドの憲法は正式にカースト差別を否定し、全ての人が平等に参画できる民主社会の建設を謳っている。ここに、かつての仏教とヒンドゥ教の最大の対立点が法制度上は失われたのだ。

現在では都市の中産階級を中心に、多くのヒンドゥ教徒がブッダの教えをひもとき、その英知に心を潤しているという。インド世界において失われた仏教の記憶は、ここに見事に復活を遂げたのだった。

そしてもうひとつ、ブッダの法輪は全く別の文脈でも復活を遂げる事となった。インド共和国の初代法務大臣を務め、国旗制定委員会のメンバーでもあったアンベードカル博士による、仏教への集団改宗だ。

不可触民という最も過酷な差別の中に生まれた彼は、明晰な頭脳によってその出自としては破格の教育を得て、やがて差別撤廃運動の指導者になる。だが、上位カーストの頑強な差別意識の壁に阻まれ、ついにヒンドゥ教から離脱し、仏教徒へと改宗する事を決意するに至った。彼の決断に、同じ差別に苦しむカースト仲間が数十万人つき従って同時に改宗したという。それは、伝統的に王侯貴族の宗教という側面が強かったインド仏教が、衰退滅亡の一時期を乗り越えて、真に民衆の宗教として再生した瞬間だった。

現在では、南アジアのテーラワーダ仏教と連携しながら、アンベードカル仏教徒は数千万人を数えるまでに成長し、集団改宗の場となった中部インドのナグプールは、ダルマ・チャクラを高々と掲げた新しい仏教聖地として、インド中の信徒の心を捉えている。インドにおいても、世界においても、仏教徒は今後増える事はあっても減る事は決してないだろう。ブッダの教えが時と場所を超えた普遍性を持っている証として、ダルマ・チャクラはこれからも多くの人の心よって転じられ続けるのだ。

私はこのナグプールを2008年と2010年の二回に渡って訪ねている。アンベードカル博士の後継者とも言われる日本人僧、佐々井秀嶺師にお会いして色々とお話を伺った。彼は元々真言宗の僧侶で、求法のためにインドに渡り、当初は日本山妙法寺とも関わりを持っている。その破天荒な人生はそれ自体ひとつのドラマだったが、私が本稿の文脈上最も注目したのは、町中至る所に建てられたアンベードカル像だった。その頭上に据えられたチャトラがドーム状の傘をさらに誇張した様なデザインをしていて、パッと見、ストゥーパそのものに思えたからだ。

試みに信者の少年に聞いてみると、得意そうに『ストゥーパをチャトラにするなんて、洒落てるだろう。俺たちだけのオリジナルだぜ』と自慢したものだ。そう、彼らインド人にとって、ストゥーパのドームをチャトラと重ね合わせる事はごく自然な感覚なのだ。この出会いによって、私は前述のロングハースト仮説についてますます自信を深めたのだった。

アンベードカル像とストゥーパ様チャトラ

そして同じナグプール市内のリクシャブーミに巨大ストゥーパを訪ねた時、その自信はさらに確信に近づいた。四方のゲートにサンチーのそれを模したトラナを配置したストゥーパは、一度は滅びてしまったインドの仏教が見事に復活を果たした象徴とも言える。その構造は、内部に空間のホールを持つ巨大なドームになっていて、ホールの中央に仏像が安置されていた。

リクシャブーミのドーム・ストゥーパ

 考えてみると、ストゥーパ文化がその頂点を極めたマウリア朝からサタヴァハナ朝にかけての時代、この様な中空の巨大ドーム建築を造り上げる技術は存在しなかったに違いない。本来はドーム状の中空容器を造りたかったが、技術が伴わないので諦めてあのようなレンガを積み重ねるだけの造作になった。そう考えるとチャトラの仮説はますます蓋然性が高まるのだった。


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