2011年5月7日土曜日

世界最古の伝統武術、カラリパヤット 1


 ケララ州のマラバール海岸に位置するカリカットは、ヴァスコ・ダ・ガマが始めてインドに上陸した地点として名高い。かつてはスパイス貿易の中継地として栄え、遠く中国や地中海世界からの交易船が行き交ったというが、現在は近代的な新市街と昔ながらのバザールが見事な対比を見せる商業都市として賑わっている。そしてもうひとつ、この町はワダッカンと呼ばれる北派カラリパヤットのメッカとしても知られていた。

 カラリパヤットについて紹介するためには、その前に大雑把にインドの歴史を説明する必要があるだろう。遥か昔、紀元前1500年頃の事だ。中央アジアから移動を始めたアーリアを名乗る遊牧民の集団が、一部はそのまま南下して後のイランに定着し、もうひとつは東へと向かってカイバル峠を越え、インド亜大陸の北西端、パンジャブ(五河)地方と呼ばれるインダス川の上流域(現在はパキスタン領)に侵入した。この集団は現在、インド・アーリア人と呼ばれている。

彼らは圧倒的な武力の優位を背景にドラヴィダ人を中心とした先住民社会を征服し、やがてヴェーダの宗教を奉ずる部族社会を形成する。肌の白いアーリア人は先住民を肌の黒い者(ダスユ)と蔑み、ここに肌の色(ヴァルナ)を基準としアーリアのバラモン司祭を頂点としたカースト制度の基礎が築かれた。

その後アーリア人はガンジス・ヤムナー川流域、現在のデリー周辺に進出、先住民の稲作農耕を取り入れて定着し、両者の文化は緩やかに融合し社会は安定していった。その侵略と融合と安定化のプロセスの中で、バラモン達は様々なヴェーダ文献を生み出していき、北インド一帯にアーリア・ヴェーダの文化が卓越した社会を形成していく。その中で武術と戦術についての方法論を扱ったものが、ダヌル・ヴェーダ(弓の科学)と呼ばれている。

一方、アーリア人の直接的な支配が及ばなかった南インドでは、先住のドラヴィダ人によって豊かな伝統が育まれ、それは紀元前後に、現在のタミルナードゥ州を中心としたサンガム文化として開花した。このサンガムの時代は文芸を中心に様々な文化が発展したと同時に、尚武の気風が尊ばれた時代でもあった。諸国の王は武術を奨励し、戦士達はスポーツの様な感覚で戦いに明け暮れた。この時代に発達したのがドラヴィダ武術、あるいはタミル武術と言われる。後にカンチープラムに生まれた達磨さんが習得したのがこの武術だ。

やがて民族意識の台頭と共に現在のケララ州がタミル世界から分離し、マラヤーラム語をはじめとした独自の文化を形成し始める。その中で、タミル武術の血を引くケララ独自の武術も形作られていった。

 西暦五世紀の中ごろになって、新たにペルシャ系のフーナ族が西北インドを侵略し始め、彼らはその後、現在のグジャラート州方面にまで勢力を広げていった。その結果、その地に住んでいたバラモン達がトコロテン式に追い出されて、西海岸沿いに南下してついにはケララにたどり着いた。ここにおいて、バラモンが携えてきたヴェーダの武術とケララ土着のドラヴィダ武術が劇的に融合し、現在のカラリパヤットの祖形となった。

カラリパヤットは時代と共に発展し、少なくとも12世紀までには現在と同じようなシステムとして大成され、16世紀にはその最盛期を迎える。しかしヨーロッパ人の進出によって銃や大砲などの火器がもたらされると、カラリパヤットは急速に実戦的な意味を失い、イギリス植民地時代に至って反抗の象徴として弾圧されるや、壊滅的なダメージを受けてしまう。だが一部の有志によってその技は地下に潜り、貴重な伝統はかろうじて消滅を免れる事となった。

そして20世紀前半、重なる大戦によるヨーロッパの疲弊を背景に、植民地からの独立を目指す民族主義がインド全土で台頭する頃、ケララでもひとりの武術家によってカラリパヤットが再興される。その名をC.V.ナラヤナン・ナイール・グルッカル(グルッカルは師範を意味する尊称)という。彼はインド全土でカラリパヤットのデモを行うと同時に、ケララ州内で多くの弟子を育てた。

C.V.N.ナイール師

中でも最も優れた愛弟子のひとりゴパラン・グルッカルが、インド独立後カリカットに新しい道場を開き、その道場からは多くの優れた弟子が育った。元々マラバール海岸一帯はカラリの盛んな土地だったが、彼の活動を契機として、カリカットはカラリパヤットの現代的なメッカへと発展していったのだ。

日本の初夏の様な爽やかな天気が続く12月の下旬、私はこの町に到着した。そして偶然の出会いから、今は亡きゴパラン・グルッカルの子息であるヴィジャヤン・グルッカルの元に、念願の弟子入りを果たしたのだった。

カラリ道場の朝は早い。乾期の12月ではまだ漆黒の闇に包まれた早朝の5時前には、気の早い子供達がやってくる。少し遅れて、グルッカルが現れて道場の鍵を開ける。ケララ地方独特の古い木製の扉が、ギギーっと重たい音を立てて押し開かれると、グルッカルは階段を降り、右足から道場の床へと一歩足を踏み入れる。

道場はおよそ縦12.8m横6.4mの長方形で、入り口のある東から東西に長く建てられている。道場の床はむき出しの地面。クリカラリという伝統的な様式では深さ60cmから180cmに掘り込まれている。この半地下構造が道場内の空気を低く一定に保ち、激しい稽古による過熱を抑える仕組みになっている。切妻型の屋根の最上部までの高さはやはり6.4m。緻密に編まれた椰子の葉を重層的に重ねる事によって、激しい雨期のスコールにも雨漏りはしない。東西に面した壁の上部には換気窓が開けられ、一年を通してアラビア海から吹きつける西風が稽古による熱気を吹き消していく。

入り口の反対、南西の角にはプータラという7段の祭壇が設けられている。これは7つのヨーガ・チャクラに対応するもので、頭頂部のサハスラーラ・チャクラに相当する最上段には守護神が祭られている。このプータラ、本来の形は丸い円壇なのだが、その四分の三は目に見えない神の領域に属し、四分の一だけが切り取られて道場に現れている形になる。

西壁全面から4隅の角に至るまで様々な神々が祀られているが、主神としてプータラに祀られるのは、一般にカラリ・バガヴァティ、あるいはカーラ・バイラヴィと呼ばれる女神で、理念的にはシヴァ神と結合した形で祀られる。この事から、カラリパヤットの根底に女神のシャクティ(性力)を奉じるクンダリーニ・ヨーガの思想があることがわかる。

プータラとヴィジャヤン・グルッカル

グルッカルが神々に花を捧げオイルランプに火を灯し、線香をたいて弟子達を迎え入れると、辺りはにわかに活気付き、神々もまた目覚めた様に神気が横溢し、道場の一日が粛々と幕を開ける。

服を脱ぎ、カッチャと呼ばれる巻きフンドシだけを腰に締めた裸の男の子達が、その身体にゴマ油をすり込んでいく。頭の天辺からつま先まで入念にオイルをすり込む事がセルフ・マッサージとなり、同時にその動きは全身のストレッチにもなっているという。

北インドを中心に発達したクシュティの場合と違って、カラリでは女の子の姿も見る事ができる。これは元々母系制であったドラヴィダ社会の名残かも知れない。さすがに裸というわけにはいかず、パンジャビ・ドレスなどを身につけて道場に花を添えている。

やがて準備のできた子供から祭壇に向かい、右手指先で最下段に触れ、その手を額に、そして胸へと触れていく。主神以外にも祀られた様々な神々、そのすべてに礼拝し終えた子供達は、最後にグルッカルの元を訪れ、低頭して彼の右足に触れ礼拝を締めくくる。グルッカルもまた彼らの頭に祝福を与え、いよいよ稽古の始まりだ。

2011年5月6日金曜日

初めてのインド武術、クシュティ


 ナットドワラはラジャスタン州の南部、レイク・パレスで有名な観光地ウダイプルの北に位置する。この町を何よりも有名にしているのが市街の中心に位置するシュリナート・ジー寺院だ。

 ヒンドゥ教は多神教として知られる。中でも最高神として人々の信仰を集めているのが、世界の維持を司るヴィシュヌ神と破壊と再生を司るシヴァ神の二大神格で、これに創造神ブラフマーを加えた三神(トリムルティ)が、神々のパンテオンの頂点に君臨している。しかし、この三神は神の様々な機能を表わすに過ぎず、本来は三位一体の至高神が、ただひとりこの世界を統べるとも言う。

 ヴィシュヌ神の特徴はアヴァターラと呼ばれる様々な化身を持つことだろう。このシュリナート・ジー寺院は、中でも最も重要な化身クリシュナを祀っていた。クリシュナとは、紀元前千年前後、北インドのマトゥラー地方に実在したヤーダヴァ族の英雄が、やがてヴィシュヌ神と同一視されて最高神へと上り詰めたものだ。伝説によれば、元々は生地マトゥラーに祀られていた御神体が、10世紀前後のムスリム勢力の侵略に伴ってナットドワラに疎開して来たのが、その発祥だと云う。以来現在まで、西北インドのクリシュナ寺院の中でも最も重要な聖地として、人々の信仰を集めていた(ちなみにこのアヴァターラは、ネット上で使われるユーザーの分身や、最近話題の映画「アヴァター」の語源になったものだ)。

 ナットドワラは丘陵地の中腹に位置する小さな町だった。11月の末に当地に着いた私は、早速伝統レスリング、クシュティの師範である一人の男を探す事から始めた。手持ちの情報はラケッシュという名前と、牛乳屋という職業のみ。しかし、道行く人に片言のヒンディ語で問いかけると、トントン拍子で彼の元にたどり着く事ができた。どうやら地元でもかなり有名人だったようだ。

 彼の名前を知ったのも、実はカラリパヤットと同じテレビ番組だった。やはり若手の俳優が住み込みでクシュティの修行をするというものだったが、そのトレーニング方法や宗教思想など興味深いものがあり、ケララに行く前にどうしても立ち寄りたかったのだ。

 町の人に案内されたラケッシュさんの店は、日本で言えば甘味処のような茶店だった。様々なスナック菓子と共にチャーイやホット・ミルクが味わえ、中でもジャレビーというスイーツが目玉だ。彼は牛乳の販売をする傍ら、兄弟と一緒にこの店も経営しているらしい。

 私がテレビを見て日本からやってきたというと、彼は大喜びで歓迎してくれた。170センチと背は低いが体重は100キロを超える。さすがは元ラジャスタンのヘビー級チャンピオンだけの事はある押し出しだった。私は彼の案内で、始めて見るインド武術の世界に分け入って行った。

 その後の取材で分かったのだが、クシュティは北インドを中心に全土に普及している。道場は一般にアーカーラと呼ばれるが、正式名称はヴャヤム・シャラーと称する事も多い。

そのスタイルやルールは西洋のレスリングとよく似ていて、投げが決まるか相手の背中を地面につければ勝ちとなる。柔道的な足技や関節技などもあって、スポーツ化されたレスリングよりも総合武術の原風景を保っていた。


クシュティの伝統的アリーナは地面を1メートルほど掘り下げた四角いピットだ。中には川砂が厚く敷き詰められて、この砂には薬効成分が混ぜられ、選手の汗も加わっていつもしっとりとした湿り気を帯びている。それを常にサラサラな状態に保つために毎日重い鍬でこの砂が耕されて、それが重要なトレーニングにもなっている。

 道場には守護神であるサルの神様ハヌマン・ジーが祀られている。稽古の前後には敬虔な祈りが捧げられ、道場で行われる全ての行為が、神への奉納としての意味合いを持っている。弟子たちにはグルジーと呼ばれる師範に対する絶対忠誠と厳しい規律が求められ、中でも性的な禁欲を求めるブラフマチャリと言う戒律は、道場が本来的には修道の場であり、稽古が宗教的な行でもあることをよく物語っている。

 稽古や試合は日本の褌とよく似たランゴールを締めて裸で行われて、全体の雰囲気は何やら日本の相撲を思わせて興味深い。けれど昨今の若者はその姿を恥ずかしがってか、トランクスなどで代用される事も多いと聞いた

ラケッシュさんと老師、背後にハヌマン・ジー

 ラケッシュさんの案内で訪ねたアーカーラには20人ほどの練習生が所属していた。ほとんどが10代後半から20代半ばの男の子で、基本的に女性は参加しないという。デリーなどの都会の道場では例外もあるようだが、インドでは一般に女性が人前で躍動する肢体をさらすのははしたない事とされ、特に伝統武術であるクシュティにおいては、女性の姿はほとんど見る事ができない。

 全体に土俗の匂いに満ち満ちた舞台装置に比べ、実際の競技自体はオリンピックのレスリングと大差なく、私の興味を引くものではなかった。一通り稽古を見渡して私が一番注目したのは、その特徴的なエクササイズだった。高い木の枝から10メートルほどの長さで吊るされたロープを、手の力だけで上り下りするラッサ。ビール瓶の胴体を太く長くしたような木製の重いバットを握ってぐるぐると回すムクダル(またはジョリー)。木や竹の棒の先に直径30cmもある丸い石やコンクリを付けた棍棒を、肩越しに背中で回すガダー。全身を曲げ伸ばすダイナミックな腕立て伏せダンダ。スクワットの元になったリズミカルなベイタック。それは私達が日常に見知っているトレーニングとはかなり異質なものだったからだ。

ムクダルを持つ筆者

 一般にアメリカ的なウエイト・トレーニングでは、バーベルやダンベルを横に握って、不安定な要素を一切排除した上で単純な上下動に専念する。けれどもラッサでは垂直に垂れたロープを縦に握って、ランダムに揺れる不安定な状態で運動が行われる。またムクダルやガダーでは重心が不安定な形をした棍棒を、あえて不安定なままでグルグルと回し、遠心力と慣性と重力の微妙な揺らぎの中でそれを乗りこなすようにして運動が行われる。不安定な中で、いかに安定を実現するか。常に変動するバランスに対して、臨機応変に即応する反射能力。単なる筋力トレーニングだけではないこの点が、三者に共通する特徴かも知れない。


 一方ダンダと棍棒回しに共通する点は、ストレッチの概念を盛り込んである、という事だろうか。アメリカ的なプッシュ・アップ(腕立て)は、大胸筋や上腕二頭筋にピンポイント的に効かせる為に、ひたすら単純なピストン運動を繰り返していく。けれどもインド式腕立てのダンダは、ヨーガにおけるスリヤ・ナマスカルというエクササイズにも似て、特に背筋の曲げ伸ばしを中心としたダイナミックな動きの中に、全体の一部として腕立ての要素が含まれている。棍棒回しの場合も、バットの重みとその回転運動によって、肩の可動域が自然に広がり、筋力だけではなく柔軟性に根ざした身体操作と全体のバランスやリズムが重視されている。

 何かトータルな身体観、あるいは運動科学が根本的に違うのではないか。そんな第一印象を抱きつつ、私はナットドワラを後にした。それは一言で言うならば、常に全身体的な連関の中で有機的に運動する、という事だろうか。その『異質な身体観』は、その後に経験するカラリパヤットによって、より鮮明にその姿をあらわすのだった。


カルカッタの匂い


2005年11月初旬、私はカルカッタの空港に降り立った。およそ8年ぶりのインド再訪だった。現在では新名称のコルカタの方が通りが良いかも知れない。空港の設備もいくぶん小奇麗に変わって見えた。だが空港を一歩出たとたん雲助タクシー運転手がうわっと取り囲んできて、法外な値段を吹っかけられるのは昔とちっとも変わらない。

 私は内心嬉しくてしょうがなかった。ついにインドに帰ってきた。このうざったくも愛すべきインド人と、また丁々発止の戦いを繰り広げなければならない。その感覚は私にとって決して不快なものではなかった。ニヤニヤしながら運転手達をあしらって、私は歩き出した。駐車場と構内道路を突っ切ってまっすぐに歩き続けると国道に出る。そこで市バスをつかまえて中心部に向かうのがいつものコースだった。

 無意識の内に、かつての貧乏旅行で通い慣れた道を忠実にたどっている。そんな自分にまたしてもニヤニヤしながら、私は大きく息を吸いこんだ。国道が近づくにつれて、懐かしいインドの匂いが強まって来る。

安タバコのビリーの匂い。乾燥牛糞を焚く匂い。ドゥープと呼ばれるお香の芳香。様々なスパイスの香り。サモサやプーリーを揚げる油の匂い。チャーイを沸かす湯気の香ばしさ。リクシャ・ワーラーの汗の匂い。女達がつける香水と、男達がかむパーンの匂い。路上にたむろする牛たちが放つ、日本では牧場でしか嗅ぐ事ができない独特の堆肥臭さ。

 それらが渾然一体となったインドの香りとしか言いようのない空気に包み込まれた瞬間、いつも私は『帰ってきた!』と強く思うのだ。そして、この感慨をどこよりも強く感じるのが、私にとってはカルカッタだった。

 テレビでカラリパヤットの番組を見てから、およそ2年が過ぎていた。この間、不思議な事にインド武術を紹介する番組がいくつか間をおいて続いた。だが、私にインド再訪を決心させたのは、アジアの武術系エッセイストである伊藤武氏が書いた『ヴェールを脱いだインド武術』という一冊の本だった。

 その中で氏は、カラリパヤットについて歴史から思想から実技に至るまで微に入り細に渡って語りつくしている。いわく世界最古の武術。ヨーガと共通する身体観。弓の科学ダヌル・ヴェーダ。そして中でも私が注目したのが、禅の開祖ボーディ・ダルマ(菩提達磨)の逸話だった。


 西暦400年前後、現タミルナードゥ州のカンチープラムにパッラヴァ朝の第三王子として生まれた達磨は、将来の後継を期待され、帝王学の一環として徹底的に武術を仕込まれ達人となる。けれど長じるにつれて宗教的傾向を深め、ついに仏教僧侶のもとで出家し、厳しい修行の末に優れた禅のマスターとして知られる様になる。

 晩年になって彼は請われて中国に渡り、嵩山少林寺に上山し面壁9年の伝説を残す。この時、その厳しい修行に弟子達が次々と落伍していくのを見て、体力と精神力をつける為、彼らにインド武術に由来するエクササイズを伝授した。これが今日の少林武術の元となったのだと言う。今でこそ少林寺は拳法で有名だが、本来の表芸は棍法、つまり棒術だったらしい。そういえば少林寺の映画の中で、棒を華麗に旋回させる技を見た記憶がある。ひょっとすると、それは達磨がインドから伝えた転法輪の棒術ではなかったのか?

転法輪。それは仏教における最も重要なイデアのひとつだ。

長い苦行の末にブッダガヤにたどり着き、そこで中道に気づいたゴウタマ・シッダールタは苦行を捨て、悟りを開くまでは立ち上がるまいと決意して、菩提樹の下で禅定に入った。そして嵐のような内面的なプロセスを乗り越えて、ついに明けの明星の下、ブッダ(目覚めた人)となる。

その後彼は、多くの修行者が集まるバラナシの北サールナートの地で、初めてその覚りの内容を修行者に向かって説き明かした。これを初転法輪(ダルマ・チャクラ・プラヴァルタナ)と言う。ブッダによって初めて、法の車輪が転じられたのだ。
以来、法輪(ダルマ・チャクラ)のシンボルはブッダ自身であると同時に仏法をも象徴するデザインとして、全ての仏教徒にとって聖別された印となった。

かつてインドを放浪しながら仏教について学んでいた頃、私はサールナートのダルマ・チャクラ・ヴィハーラ(法輪精舎)という日本寺で多くの時間を過ごしていた。法輪の形とそれにまつわるエピソードは、私の心に印象深く刻み込まれていたのだ。だからこそテレビで回転技を見た瞬間、転法輪のイメージが閃いたのかも知れない。

 私の中で曖昧だったインド武術のイメージが伊藤氏の本によって結晶化し、同時にそれが仏教ともシンクロした時、私はインド再訪を決意していた。そして切りの良いところで仕事も辞め、満を持してカルカッタに乗り込んだのだった。

 かくして、市バスと地下鉄を乗り継いで無事に安宿街のサダル・ストリートに落ち着いた私は、かつてなじんだ土地、お世話になった人たちを訪ねつつ、パキスタンと国境を接した最初の目的地、ラジャスタン州へと向かったのだ。

プロローグ

 
その日、仕事を終えて帰宅したのはいつもの様に5時半を回っていた。シャワーを浴びて食事を済ませると、私はテレビの前のソファーに身体を寛がせた。

最後の旅から日本に帰国して、もう6年が過ぎていた。あの、インドやアジア諸国での経験は何だったのだろうか。そう思わずにはいられないほど平凡な、しかし充実した日々が続いていた。

だが心のどこかで、インドへの思いをあたため続けていたのもまた事実だった。日本とは全てにおいて異なった別世界。けれど何故かたまらなく懐かしい人間存在の原風景。またインドに帰りたい。平穏な日常に満たされつつも、常にその思いを抱えていた。

そんな私の心に、まるで楔を打ち込むように、その番組は突然やって来たのだ。

それは、若手の俳優が海外に行って、現地の様々な伝統文化のスペシャリストの家に住み込んで一緒に生活しつつ修行をするという、海外情報バラエティとでも言うのだろうか、人気のある長寿番組だった。

結構気に入って毎週見ていた私は、習慣的に番組表を確認し、その瞬間目線が釘付けになっていた。ヨーガ武術?カラリパヤット?紙面に踊るそれらの文字が、私の心を鷲づかみにしたのだ。ヨーガ武術と言うからには、それはインドの武術に違いなかった。

1995年から足掛け3年、私はインドを中心に広く南アジアの国々を旅して回った。ありきたりな話だがヒンディ語やヨーガ、仏教の瞑想について学び、修行と放浪の日々を過ごしたものだ。

しかし、ヨーガや瞑想は私にはおとなしすぎた。元々身体を動かすのが好きで、それが嵩じて大学卒業後は林業の現場に飛び込んだ人間だった。静かに坐り、ひたすらに自分の内面を見つめるという瞑想修行には、魅了される面と飽き足らない面が半々だったのだ。

そして3年を潮に日本に落ち着いた私は、縁あって合気道を始める事になった。それは、偶然インド旅行中に知り合った日本人から聞いた、『動的な禅』という表現に強く惹かれたのがきっかけだった。知り合いのつてで合気道の奥の院と呼ばれる茨城の道場に入門した私は、そこで見事に『動的な禅』にはまってしまい、ほぼ3年間、毎日朝晩、稽古三昧の日々を送る事になった。

その後、和歌山で林業に復帰するために茨城を離れて稽古も中断してしまい、手近に適当な道場もないことからひそかに欲求不満が溜まっていた。そのタイミングで偶然目にしたインド武術という言葉は、大いに私の食指をそそるものだったのだ。

あのインドの、しかも武術だって?

足掛け3年、延べ20ヶ月以上をインドで過ごした私にとって、インド人と武術修行ほどミス・マッチな物はない気がした。あの暑熱の中で、一体どうやって激しい運動などできるのだろうか? 一見、日本人の目には怠惰に見えるインド人の生活も、実は気候に対する適応なのだ。あの土地で日本と同じようにシャカリキに働いたら、たちまちオーバーヒートしてしまう。あんなところで激しい武術の稽古などありえるのだろうか。私が所属した合気道の道場は厳しい稽古で有名だったため、そのイメージと、あのインドのイメージとが、私の中では容易に結びつかなかった。

頭の中に様々な?マークを躍らせながら、私は録画の準備をし、番組の始まりを待った。

若手俳優が訪ねたのはケララ州のコーチンだった。インドの最南端に位置するこの州はアラビア海と西ガーツ山脈に挟まれ、水と緑があふれる風光明媚な美しさで知られていた。隣のタミルナードゥ州と並んで私にとって最もお気に入りの土地で、数週間に渡ってくまなく旅した記憶がある。しかし、あそこに武術などあったのだろうか。

司会者の説明によるとカラリパヤットはケララの伝統武術で、昔CMの中で高く吊り下げたボールを軽々と蹴り上げる姿が放映されたという。それを聞いたとたんに私の記憶も疼きだした。確か、いやはや鳥人だ!というキャッチ・コピーの鮮烈なCMを見た記憶がある。あれは何のCMだっただろうか?

私の疑問をよそに番組は進行していった。

そして突然、道場で上半身裸の男達が棒術を始めたのだ。

私が学んだ合気道の道場では、剣と棒(杖)と体術の三位一体で稽古が行われていた。元々武道をたしなんだ事などなかった私は、この時初めて棒術というものに出会い、そして魅了された。剣も体術もそれぞれに味わいがある。けれど最も私の魂をつかんだのが、この棒術だったのだ。

そして今、画面の中で繰り広げられるインドの棒術。それはとても不思議なものだった。背丈ほどの棒の真ん中をつかんで、片手でひたすら回していく。回しながらその回転を止めることなく、右手から左手、左手から右手へと持ち替えていき、とにかく身体の周り、あらゆる方向でひたすら回していく。

その動きは、一見したところどうやっているのかわからない。若手俳優も、とにかく棒を持たされて兄弟子達の真似をするのだが中々うまくいかず、自分で自分の頭を打ってはさかんに首を傾げている。

けれど肌の黒い男達が見せるその回転技の軌跡はとても美しく、あたかも巨大な車輪が身体の周りを回転しながら翔け巡っている様に見えた。


 その瞬間、天啓のように私は直観したのだ。

『これは、転法輪の棒術に違いない』と。

それは全く根拠のない、しかし確信に満ちた直観だった。

それが、とてつもなく遠く長い旅の始まりになる事など、その時の私は知る由もなかった。ただ、回転する棒が生み出す美しい車輪の姿を、繰り返し頭の中で反芻し続けていた。



チャクラの国のエクササイズ ~総目次~

プロローグ 第一章 インド武術を求めて カルカッタの匂い 初めてのインド武術、クシュティ 世界最古の伝統武術、カラリパヤット タミル棒術シランバム 柱上のヨーガ、驚異のマラカンブ アショカ大王とカリンガの戦士達 第二、第三のチャクラ 第二章 チャクラ意識の源流 ヴィシ...