2011年5月19日木曜日

タミル棒術、シランバム


 マドゥライはミナークシ寺院を中心に発展した典型的なヒンドゥ教の門前町だ。州都のチェンナイ(マドラス)に次ぐ第二の人口を誇り、タミルナード州南部の中心都市として賑わっている。またこの町は、西暦紀元前後に花開いたサンガム文化の揺籃の地としても知られ、最も純粋なドラヴィダ文化が脈々と伝えられ息づいていた。

 明けて2006年の2月、私はマドゥライに到着した。ここは私にとって色々な意味で思い出深い土地だった。交通の要衝に位置し、ミナークシ寺院というハイライトを持ち、食事や宿にも恵まれている事から、以前の旅では何回も滞在している。だが当時は、ここが武術のメッカだなどとはまったく気がつかなかった。

ミナークシ寺院

 町に入った時点で持っていた情報は、マドゥライという地名とシランバム棒術という名前だけだった。何かしら取っ掛かりをつかまえるべく、とりあえず私は観光局を訪ねた。 私が、タミルの武術に興味がありシランバム棒術のマスターを探していると言うと、驚くべき事に、親切な係員が武術を特集した観光パンフレットを取り出すではないか。私もインドは長い付き合いだが、伝統武術だけを紹介するパンフレットを持つ町など聞いた事もない。係員はさらに、シランバムのマスターの名前と住所も、その行き方まで懇切丁寧に教えてくれた。聞けばマドゥライでは昔からシランバムが盛んで、現在でも郊外の村を中心に多くの道場が存在するが、町の中心にあって、しかも英語が通じるマスターなら、この人しかいないという。

 彼の名前はシャフール・ハミード。新市街の方でシマシャン武術研究所という名前で道場を開いているという。聞いた瞬間にムスリムだとわかって、私は少し意外な気がした。クシュティにしてもカラリパヤットにしてもヒンドゥ教と分かちがたく結びついている。何かインド武術=ヒンドゥ教という図式が、私の頭の中に出来てしまっていたのかも知れない。稽古は朝夕にやっているはずだと言う。とにかく観光局のお墨付きのマスターだ。私は早速その日の夕方、道場を訪ねる事にした。

 シマシャン武術研究所は、新市街のゴリパラヤム交差点から西に歩いて10分ほど、ミナークシ女子大の手前にあった。雑居ビルの1階に入居し、畳30畳ほどの広さに近代的なトレーニング機器が据えられている。名前に反してそれは一見、普通のパワー・ジムの様に見えた。最近のインドでは、ボリウッド映画のマッチョなヒーローの影響でボディ・ビルがブームになっている。各マシンには多くの若者が取り付いてトレーニングに余念がなかった。

初めて会ったシャフール師は30歳前後、筋肉質の青年だった。彼は10代の始めからシランバムを学び、現在はウエイト・トレーニングやヨーガと共にシランバムを教える総合フィットネス・クラブとしてここを運営しているという。若いが中々のやり手らしく、私が迎え入れられたオフィスにはシランバムを中心として沢山のトロフィーが並んでいた。

戦闘シランバムの演武をするシャフール師

そしてここで、私はもう一人予期しない人物と出会う事になった。エドワード・ポウ、アフリカ系のアメリカ人。ウィスコンシン大学でアフリカ言語学の博士号を取った文化人類学者で、ドラヴィダ人の伝統武術について研究するため、ここに来ているのだという。内心、面白い展開になったと思いつつ自己紹介し、しばらく四方山話に花を咲かせた。彼は黒人としてのアイデンティティを求めてアフリカの文化について学び、中でも武術に深い関心を持ち、若い頃には自らカポエイラの選手としてならしたと言う。もう60を越えた年配だが、確かにそのごつい身体にはある種の迫力があった。

私も一通りここに来た経緯や日本の武道について話をし、雑談も一段落したのを見計らって肝心のシランバム棒術について聞いてみた。すると、稽古はこのビルの屋上で行われるのだが、始まるまではまだ少し時間があると言う。そこでシランバムに関してざっとおさらいのレクチャーをしてもらうことにした。シャフール師によると、現在行われているシランバムは、以下の3つのカテゴリーに分ける事ができる。

ひとつは競技シランバム。これはスティック・フェンシングとも呼ばれ、二人の選手が丸いコートの中で棒を持って向き合い、スポーツちゃんばらの様にお互いに打ち合ってポイントを競うというもので、現在、主に学校教育や地域少年スポーツとして行われている。

次がショー・シランバム学校行事や地域のイベント、祭りなどで行われるデモンストレーションで、最近では新体操のリボンのような技も取り入れられ、華やかな装いを見せる。特に夜行われる一連のファイヤー・シランバムはほとんどサーカスのようなエンターテイメントで、民族太鼓のリズムに乗って繰り広げられる技の数々は、演技者と観客が一体となったトランスの世界にいざなってくれる。

三つ目が戦闘シランバム。これが本来の武術的な棒術で、ひとりで行う基本操作から始まって、二人で向き合う組棒の型から、棒を使った関節技、投げ技など、多様な広がりを見せる。そこでは刀や槍などカラリパヤットとも共通する武器技がかろうじて保存され、また徒手格闘の技と共にマルマンの知識も一部の老師によって継承されている。現代では棒術に特化してしまったシランバムも、かつてはカラリパヤットの様な総合武術だったのだろう。

回転技はこれら全てにおいて基礎的なトレーニングとして行われ、中でもショー・パフォーマンスの中では中心的な役割を担っていた。

時間を見計らって私達が屋上に上がると、すでに4,5人の生徒が集まって、てんでに棒を回していた。戦闘シランバム以外には女の子も多く参加すると聞いたが、その場でも2人の少女が一心に棒を回していた。

カラリでは固くした葦と言うか、しなりの強い竹と言うか、その中間と言うか、とにかく日本ではまず見かけない材質の棒だったが、シランバムでは籐家具の籐とそっくりな棒を使っている。英語でケーン、ヒンディ語ではヴェットゥと言うのだが、恐らく籐だろうと思う。普段組み上げられた家具としての籐しか見た事がないが、棒として持つとそれは非常に軽くフレキシブルで、しかも頑丈だという事がよくわかった。

私も合気道の棒術を見せたりして、はからずも日印武術交流が始まった。上級者が演じる回転技の速いこと。カラリのそれに比べ、2倍以上の速さに感じられた。さらにその多彩な技のバリエーション。今まで見た事もないようなトリッキーな動きに、私はたちまち魅了されてしまった。

だが、ケララで初歩を学んだとは言え、そのトリッキーでスピーディな技は、目で見ただけでその原理を理解できるほど甘いものでは無かった。できればここに一か月ほど滞在し、すべての技を完全に我が物としたい。だが今回、その時間はなかった。私はもどかしいような葛藤を抱えながら、回転する車輪の姿を見つめ続けた。

一通り見学も済んだ帰り際に、シャフール師が耳寄りな情報を教えてくれた。なんでも彼はシランバムを世界に紹介するために、現在DVDの製作を進めているらしい。そして2日後にもその撮影があり、シランバムの全てが見られるという。私は幸運をアレンジしてくれた神に感謝した。

当日、撮影は郊外のリゾート・ホテルの広い庭で行われた。そこでは試合やショー、そして武術的な組み棒の型に至るまで、文字通り全てを見る事ができた。試合形式や組棒の型などはとても興味深く観察したのだが、日本の合気道で非常に実践的な稽古をしていた私の目から見て、それらはいまいちの感を否めなかった。

そんな中私が注目したのは、ショー・パフォーマンスで行われたリングの回転技だった。六芒星の形や同心円状に溶接した金属製のリングに火をつけて回す、チャクラ・チュトゥルーという技。その名前は文字通り、『車輪の回転』を意味していた。

炎の回転技チャクラ・チュトゥルー

早速シャフール師に質問したのだが、わかるのは名前だけで、その起源や由来などは全く要領を得なかった。どうやら彼らにとって、このシランバムはあまりにも身近な生活文化でありすぎて、今更起源やら意味やらを突っ込んで考える事などない、と言うのが実情の様だった。

シランバムの歴史についても分からない事が多い。というか、インドの歴史自体が実はあまりよくわかっていない。こう言うと多くの方は不思議に思うかも知れないが、実はインド人には、あるいはインド世界には、伝統的に歴史を記述して年代記を作成したり、日常生活の民俗誌を記録するという習慣が欠如していた。それは16世紀、北インドにイスラムの侵略王朝であるムガル帝国が成立する前後まで、インド全土で普遍的に見られた傾向だった。

昔からインドでは、時間というものは過去から未来に向かって一方通行で流れるものではなく、それは常に円環をもって循環していると考えられてきた。繰り返し巡ってくる季節を判別するための暦は発達したのだが、彼らの関心はひとえに神の営為を探求する方面に傾き、繰り返される人間の営為についての記述は、ほとんどないがしろにされてしまって来た。

偉大なる神の領域である時間の中で、繰り返される人間の生活や歴史などは取るに足らない。そんなものを賢しらに記述したり論評したりするのはおこがましい、と言う考えもあった様だ。とにかく、史上有名な王朝や帝国にしても、王達の即位年や名前さえもはっきりしない事が少なくない。生活文化や風俗に関しても、仏典や外国人の旅行記を除けばほとんど残されていない。この点は、執念とも言える克明さで古代から史書を綴ってきた中国人とは、対照的な国民性だと言わなければならない。

まことに学者泣かせな話だが、シランバムの歴史についても一般には紀元前後のサンガム時代に発達したと言われているが、本当のところはよくわからない。ましてやシランバムの中の、いち回転技の起源など、誰一人わからないというのが実情だった。

タミルでは、ここ数百年のスパンで見ればシランバム棒術の発展にムスリムが大きく貢献していて、技術用語にもアラビア語系の言葉が多用されているという。一方、仏教の気配は残念ながら全く感じられない。過去においてはタミルやケララでも仏教が信仰された一時期があるのだが、ちょうど達磨が中国に渡ってから100年ほどで、そのほとんどが滅びてしまったのだ。そんな中、チャクラ・チュトゥルーの存在は明るい発見だったが、そこからは話が進んでいかない。

インドは釈尊が生まれ、悟りの後に布教し、原始仏教から大乗、そして密教に至る仏教文化が栄えた土地だった。だが実は、6世紀前後から仏教は急速に衰退し、13世紀に東インドのヴィクラマシーラ寺院がイスラム教徒によって破壊されたのを最後に、事実上インドの大地から仏教徒は消滅してしまうのだ。その後近代に至るまで、ブッダの法輪は遺跡の中に完全に埋もれてしまい、インド人の生活からはその記憶が完全に失われてしまっていた。

棒術の回転技が法輪を象徴するという私の仮説は、完全に壁にぶち当たっていた。それは単なる妄想に過ぎないのだろうか。私は途方に暮れざるを得なかった。

 しかしその点を除けば、マドゥライ滞在は私にとって十二分に有意義なものとなった。いくつかの道場を訪ね、多くの人々と友好を深め、わずかながら回転技のバリエーションを増やし、私のインド武術に対する思いは、更に深まったのだった。

達磨大師によって中国の嵩山少林寺にもたらされたドラヴィダ武術は、やがて中国武術の本流となって発達し、それが沖縄に渡って唐手になり、日本本土に渡って空手になった。少林寺の表芸である棍法、沖縄の村の棒術や古武術の棍には、その歴史の証人のように美しい回転技の片鱗が伝わっている。そしてドラヴィダ武術の流れは、達磨の時代を挟んだ千年の間、あまたの王朝によって東南アジアに輸出され、現地に大きな影響を残している。その、全アジア武術のルーツとも言える古式ドラヴィダ武術、その直系の継承者こそが、シランバムでありカラリパヤットなのだ。その長い歴史に思いを馳せた時、私は時空を超えた圧倒的なスケール感に戦慄を禁じえなかった。

 そしてもうひとつ、私はここでエドワードから重要な情報を得た。州都チェンナイの南、ヴィルプーラムという町に、マラカンブというとんでもない伝統武術があるのだと言う。実際に彼が撮った写真を見ると、それは驚愕のパフォーマンスだった。しかも2日後にイベントでデモが行われるらしい。私はシランバムに未練を残しつつ、彼と一緒にマドライに別れを告げたのだった。


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